Vol. 3, 4 東欧・中東からの便り


目次

はじめに

クロアチアへようこそ!

本格的に行進を再開
ボスニア・ヘルツェゴビナのモスタルにて

THROUGHT HEART TO PEACE に関して

大きな戦争と小さな一歩

エルサレムで記者会見

道すがら

お太鼓の道すがら(2)

イラク緊急証言レポート

巡礼日記


東欧・中東からの便り

「生命と平和への諸宗教合同巡礼1995」がアウシュビッツ(オシフィエンチム)から歩きはじめて早や4ヶ月。この間巡礼は、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、イスラエル、パレスチナ、ヨルダン、イラク、インドを歩き祈りを捧げてきました。

東ヨーロッパのクロアチアでは、現地の崩壊した状況にもかかわらず、あるいはそれが故に、手厚く暖かくもてなされたようです。クロアチアで出会った失意のカソリック神父は、巡礼団が平和の祈りを捧げるために来訪した初めてのグループであることを告げ、大変勇気づけられたと語られたそうです。この地域での巡礼のオーガナイズをしてくれたグレッグ・ハッセルは、「それは取るに足らない小さな施しであるかもしれない。しかし、私たちがそれをすることが肝心なのだ。」と記しています。地球が今大変な状況にある中で、地球意識の目覚めと平和への祈りは、このような場からも発しています。

巡礼の過程としては、旧ユーゴスラビアのサラエボでは行進許可が降りなかったものの、イラクでは35人の入国許可が出て、行進が行なわれました。ニューズ・レターをまとめる私たちにイラクから連絡があり、ある巡礼者は、「毎日泣きながら歩きました。」と語り、「経済制裁という名の実体はじわじわという虐殺に他ならない。」と報告してくれました。この号には、イラクの経済制裁解除を求めるレポートも載っておりますので是非ご覧ください。重ねて、ご協力をもお願いいたします。

さて巡礼は、東南アジアに入り、5月にはカンボジア、6月にはベトナム、7月フィリピンと歩き、8月1日に大阪に到着する予定ですが、シンガポール、マレーシア、中国は政府の許可が降りず、巡礼が叶いませんでしたが、4月22日にマレーシア、ペナンにおいて華僑戦没者慰霊祭が行なわれ、その慰霊塔のまわりを、小さな一歩一歩を踏みしめて巡礼者、マレーシアの人々と祈り歩きました。別ルートでは、ビルマ、韓国、アメリカ南西部の巡礼も行なわれます。日本でも諸々の異変、事件が起きていますが、この巡礼が日本に向かって歩いていることを考えますと不思議を感ぜずにいられません。

巡礼者の声が、そして偽りの無い魂の響き合いの中で歩かせていただいた土地土地で手渡されたメッセージが、この小さなニューズ・レターをお読みになる方々に届きますよう。


巡礼の輪をひろげる会


クロアチアへようこそ!

クロアチアへようこそ。オニスへようこそ。
私たちは、いつでも心を開き、両腕を広げて来客を迎えてきました。私たちは友好的な民族です。常に皆をもてなしてきました。数百年の間、今は私たちを攻撃している人々にさえも、我が家を差し出してきたのです。私たちは、セルビア人がクロアチアの領土の3分の1を占拠し、私たちの民と教会のシンボルであった神聖な記念碑を破壊したことで、苦しんでいます。教会は、常に人々の苦しみと共にありました。今このような状況で、教会は私たちと共にあり、傷つき、軽んじられ、追放された痛みをやわらげ、誰かれなく助けを差し伸べています。信じがたいことですが、私たちの若者が毎日殺されているのです。あなたの国では、若者たちは自由に生き、愛し、口づけを交わし、働き、学んでいるのでしょう。クロアチアの若者たちは、そのような経験をすることなく、自分の家と生命をどうやって守っていくかを考えて、生きているのです。

巡礼者たちよ、私たちはあなたを祝福しましょう。この町で、心地好い滞在をなされますように。あなたたちは、この町を通り過ぎていっても、私たちを忘れずにいてくれることでしょう。その事に感謝します。孤独ではない、心配してくれる人たちがいるのだと知ることは、嬉しいことです。あなたたちは、私たちの希望と信仰の不朽の源である聖地に、行こうとしています。祈り、光と平和の女神の地です。私たちを忘れずに、あなたたちの祈りの中にクロアチアの名前を入れて下さい。祈りと信仰こそが、私たちを救うのです。神よ、感謝いたします。人の道に目覚め、生命と永遠の救済の光を、保ち続けて下さい。

神の御加護と祝福が、あなたたちの行く道に注がれますように。

(クロアチアの地元の教会での歓迎スピーチ)


本格的に行進を再開

1月7日に、11日ぶりに本格的行進を再開した。クロアチアのアドリア海を臨む町スプリットを午前8時出発。海岸沿いを南下し、25キロ離れたオミスにむかう。

途中、キャンピングカーの後やトレーラー部分をたくさんならべて住宅に転用した、難民キャンプ前を通過する。難民たちは、不自由な生活を苦にしているようすも見せず、行進に笑顔で手を振ってくれた。

本当は、このキャンプで巡礼者のうちの希望者が奉仕活動をする予定だったが、すでにキャンプに入っている国際的な奉仕グループが、新たな奉仕者を受け入れる態勢ができていないことを理由に難色を示し、やむなく中止された。残念。

海のながめは申し分ないが、ところどころの集落で子供たちが木製の銃で戦争ごっこをしている場面に出くわし、戦場が遠くないことを思わせた。夜は、宿泊先の体育館でオミスの人たちが、歓迎の音楽会を開いてくれる。合唱、ピアノなど水準が高いのにびっくりする。

1月8日は、海岸沿いをさらに南下、マカルスカへむかう。左岸は石灰岩の山にブッシュが連なる荒涼とした風景が目立ってくる。

翌9日、いよいよ海岸に別れを告げ、内陸のブルゴラクへ。全行程36キロ。標高差800メートル。今回の5日の行進で最もきつい日だ。寒さが強まって来た。昼間のつらい行程に比べ、夜は一転して天国にいる気分に。地元の聖フランシスコ会の人たちに、一流ホテル並みのフルコースの料理をふるまっていただいた。チキン、スープ、サラダ、ブレッド、ジュース、デザートと質量ともに圧倒的。食後はさばけた神父さんとブルゴラクの市長さんも加わって、たっぷり男性合唱も披露された。

10日はさらに内陸を東に進みメディゴリエへ。15年前、6人の子供の前に聖マリアが「出現」して以来、世界各地から信者が訪れるようになり、今回の内戦でも一切攻撃を受けなかったという聖地だ。夜は、大テントで野宿する予定だったが、オーガナイザーの努力で、難民収容施設を一晩借りられることになった。入居している難民の人たちには、突然大集団が押し寄せて来て申しわけないことだ。母親と幼い子供たちの組み合わせが目立ち、父親の姿が見えないのが内戦のむごい現実を物語る。

11日、モスタルへ。途中、みぞれがちらつき、体の芯まで冷える。昼休みを省略して午後1時前には、宿泊先の大学の施設に入る。モスタルの内戦前の人口は約20万人、現在は10万人。空襲の時の死者は約500人。モスレム人が約50%を占める東モスタルの破壊ぶりはすさまじく、かつて32あったモスクは現在3つしか残っていない。

地元のカトリック教会の神父さんと、言葉をかみしめなければならない。「モスタルには原爆こそないけれど、毎日が(悲惨だった被爆直後の)広島のようだ。ここに未来はない。」

(松崎三千蔵)


ボスニア・ヘルツェゴビナのモスタルにて

<旧ユーゴ最大の紛争地、ボスニア・ヘルツゴビナの南のはす口、モスタル。>

峡谷に開けたこの地方都市に着いて今日で5日目。この間私達は市中行進し、2日間街頭で御断食をした。またカトリック教会や病院を訪ね、市中を歩く中で人々の声に耳を傾けた。

モスタルは第2次大戦中の勇敢なパルチザン闘争の映画『ネレトバの戦い』で名高い。町の名の語源は「橋守り」、文字どおり町のシンボルでもあった。ネレトバ川のアーチ橋は16世紀に架けられ、400年以上の風雲に耐えた。しかし、昨夏の戦闘は、この歴史遺産を一瞬のうちに吹き飛ばした。「戦争は文化を消す」この町の神父が語った言葉である。

町の誇りでもあったトルコ風の景観も、ムスリムの生活文化も今はない。 モスタルは目下、ネレトバ川を挟んで西側のクロアチア人地区(以下西モスタルと記す=クロアチア共和国管理)と東側のムスリム人地区(以下東モスタル=実体のないボスニア政府およびUN、EUが監視)に分かれている。両者の雰囲気はまるで違う。(もともと両者は何百年も共存し混住してきたのだが)破壊の跡こそ生々しいが、都市機能がほぼ保たれている西モスタルに対し、東モスタルは電気、水道はもちろん、住宅も産業基盤も破壊し尽くされ、ガレキの中に残された人々のぎりぎりの暮らしがある。

<旧ユーゴ解体後のボスニア・ヘルツェゴビナ。>

旧ユーゴ解体後の歩み、戦争の経過と現状をひと言で言い尽くすことはとてもできない。しかし、ボスニア・ヘルツェゴビナとその中の都市モスタルをめぐる状況については、わずかながらつかんできた。その中身は血で血を洗う、隣人同士の悲惨な陣取りゲームであり、最も弱い者が一番の犠牲者となるという、あらゆる戦争におけるいつもの図式である。

旧ユーゴ解体後、その域内で最も覇権を競ったのは、軍事力と人口でナンバー1のセルビアと、経済力でトップに立つクロアチアだった。ボスニア・ヘルツェゴビナは、奇しくもこの両者の狭間にある国家である。ムスリム人40%(イスラム教徒をさす)、セルビア人30%(おもに正教徒)、クロアチア人17%(おもにカトリック教徒)と民族・宗教構成も、旧ユーゴを構成した六共和国中、最も複雑、この中で当初から領土的野心も軍事組織も持ち得なかったのが最多数派のムスリム人だった。彼らはまずクロアチア軍に迎え入れられ、共同戦線を張ってセルビア軍と対峙した。しかし、クロアチアが自国領の1/3を域内セルビア人に奪われると(クロアチア内のクライナ・セルビア共和国)状況は一変した。もともとクロアチアのツジェマン政見は2枚舌であり、はじめはセルビアに対抗するためにムスリムを利用したが、セルビア側に自国領土の一部を奪われるやいなや、ボスニア・ヘルツェゴビナにその代替地を求めていずれセルビアと分け前を分かち合うという本音を吐露した。

ここにボスニアを死守しようとするムスリムとボスニアを仲良く分割しようという野心をセルビア、クロアチア(両者のトップは、93年初めボスニア分割についてスイスで密約した)3つどもえの戦闘が始まり、泥沼化していく。この戦争は92年春から94年夏まで続き、とくに首都サラエボでの戦闘は昨12月(94年)に一時停止したばかりである。

冬季オリンピックの開かれたサラエボは、かつての同胞が骨肉相喰む文字とおりの地獄と化した。経済悪化、社会主義国の崩壊、民族主義の台頭、冷戦終結の中から生じたこうした地域紛争を見るとき、それを利用し、煽ることによって暴利をむさぼる商人、そのエージェントとしての国連、軍事大国の意図の介在を見逃すことはできない。旧ユーゴの内戦紛争は、武器が供給され続けることによって一層長びくことが予想されるからである。

「私の住まいが、この壊れた窓から見えます。ご覧下さい。あの川向こう(西モスタル)の高層ビルの2つ右のアパートの一室です。一人暮らしです。家族も飼っていた犬も全部死にました。薬局(私達の立っている一室)が爆風で飛んだ時、私はたまたま外出中でした。それで皆さんとこうして話ができる。戦争の前、私は家族とともにこちら側(東モスタル)に住んでいました。今、こちらで暮らすのはとても大変です。電気もない、暖房もない、水もない。私、向こう側に住むためにクロアチア人でムスリムと申告しました。」白ひげをたくわえた堂々たる体躯の病院長は、高まる感情をおさえるようにおもむろに語りはじめた。

1月15日、私達は東モスタル(ムスリム人地区)の病院を訪問した。人口2万7千人(戦前7万人)のこの地区に医者は今4人。産業基盤も何もかも壊滅し、ガレキの町を零下5度の寒風が吹きすさぶ。

昼下がり、5km郊外のもう一つの病院に向かった。砂糖工場の倉庫跡にコンテナを入れ、病床、手術室、産婦人科等に使っている。私達は烈風の中、唱題して歩き、先程の院長に迎えられた。

「生活は?」「何もない。燃料も水も電気も。」

「お金は?」「稼げない。工場も会社も仕事もありません。ほとんど援助物資・・・。あ、そうですね。私、今月2年ぶりにサラエボ政府から給料をもらいました。70マルク(約5千円)です。看護婦には50マルク支払われました。」

「全体的な状況を。」「工場にあった機械は、すべてセルビア人が持って行きました。また、エンジニアは全部出て行きました。電気、水道、建築、レントゲン技師、薬剤師・・・。これは深刻です。しかし人々は帰れない。家もない。食糧もない。」

「戦争のはじまり、そしてこの町の被害実態を。」「東モスタルではこれまで4000人程死にました。初めて爆撃があった日は、8万発、18種の爆弾が使われました。1年目の冬、攻めてきたのはセルビアでしたが、その次の冬は、クロアチアでした。」

元ベトナム帰還兵、ホームレス7年の米国人ビルが質問する。

「私達は去年この病院を訪ねました。右足の骨を失くしたエニスという青年と友達になった。彼の消息をご存知ですか。」

「毎日4000人もの患者が来ました。とても一人一人の名前は覚えられません。」

私達はそれから、EU、WHO、UNICEF等の援助、再建事業の実態について尋ねた。そして、多忙な中お茶の接待までして下さった院長、スタッフの方々に礼を言い、千羽鶴を贈った。

元旦、ウィーンを発ち、旧ユーゴに入って約半月、私達はこの国の多様性、美しい自然、何より心から平和を希う人々の気持ちに胸を熱くした。クロアチアのザグレブが小ウィーン、同じクロアチアのアドリア海沿岸のスプリットやオミスは雰囲気も自然さながらイタリアで、一方このモスタルにはトルコの面影があった。そのどこにも共通していたのはスラブ民族特有の素朴で熱い人情だった。チトーがよくまとめた旧ユーゴの歴史は、50年に及ばなかったが、このバルカンの多民族地域にはその何十倍もの長い間、文化、宗教を異にする人々が共存して来た。

旧ユーゴ南部、現在のマケドニアの首都スコピエルに生まれたマザー・テレサ(アルベニア系ユーゴ人)は、モスクとカトリック教会とネギ坊主の東方正教会、多様な言語と生活習慣の中に育った。「この事が後の私の人生を決定づけました。」と彼女は語っている。

彼女は異文化、異民族、そして異なる宗教思想について、寛容であることの美徳をこの地で育んだのである。

日本には、「ユーゴスラビア人」であることを誇らしげに語り「やめない。」と言い切る歌手のヤドランカがいる。彼女の両親はクロアチア人、セルビア人である。冷戦終結後の世界情勢をみる時、彼女の姿勢に一つの光明を見出せるように思う。

(ボスニア・ヘルツゴビナ・モスタルにて、金枝宣治)


THROUGHT HEART TO PEACE に関して

現在20〜30万人もの難民を抱えるクロアチアで、エムスダ・ムハジクとMsエマを中心に約2年前に発足したグループ。病人、けが人の手当、女性子供を対象とした避難所の建設・運営。ミシンによる縫製や髪の手入れの仕方を教える等、女性の自活を助けるためのプログラムを勧める等、約10に渡るプロジェクトを運営している。主催者の一人であるエムスダは5つの強制収容所での生活を強いられた後、幸運にも脱出に成功するという経験を持つ。その際出会った老人に、女性が団結することによってボスニアに平和が訪れるという予言を授かった。これをきっかけに彼女は、ヨーロッパで平和を築くために活動している女性に呼びかけ世界規模のネットワークが生まれた。

世界中で、今、女性が動き出している。飢餓が蔓延し、複数による強姦が横行する。これが難民が置かれている環境であり、そうした中で人々は人間としての尊厳を奪われ、物理的な破壊にとどまらず精神的破壊が進行している。エムスダの出身地であるボスニア北西部のコザックでは、1週間に、7000人が虐殺され、2万人が強制収容所に送られた。(恐らくその多くが殺害されている)ボスニアでの詳しい状況を尋ねたところ、反対に自分の目で見て欲しいと強く要望された。

現在ボスニアでは全ての物が不足しているので、何でも分けて欲しいと彼女らは言う。今まで送られた物資の中には、壊れた物や汚れた物も少なくなかったらしく、中にはベトナム戦争時の食料や犬用のエサのラベルをはがしたかん詰めすらあったという。こうした行為が、どれほど彼女達を傷つけるか考えてもらいたいと思った。苦しい状況の中、めげずに彼女達は活動しており、より多くの女性の動きを切望している。女性は、今、何でもできると、彼女達は声高に断言する。(そして、その女性を助けることによって男性も運動に参加できるとつけ加えることも忘れなかった)

1995年5月27日にサラエボで世界的規模での女性会議(International woman's conference)が開かれる予定である。 第二次大戦中に犠牲となった子供達の慰霊碑を建てるがあり、この団体の構成員の何人かは広島のさだ子の像を御存知の様子で、あの様な像を是非建てたいと思うとおしゃっていました。

石井佐紀子


大きな戦争と小さな一歩

マハトマ・ガンジー師は、ある時こう言った。「何をするにせよ、それはほんの小さな事でしかない。しかし、それをあなたがすることが肝心なのだ。。」ボスニア・ヘルツゴビナの莫大な廃墟を目の前にして歩き、食を断ち、平和を祈ることは、ほんの小さな取るに足りない事のように見える。しかし、僕がこの小さな行を施すことが、僕にとっては肝心なのだ。

もう2年前になるだろうか。僕は朝の瞑想を、神が自分を世界の奉仕をする場所へと導いて下さるかもしれない、という祈りで終えた。その5秒後に電話が鳴った。果たして、80日程音信不通だった僕の友人である笹森上人からの電話であった。「グレッグ」と、笹森上人は言った。「アウシュビッツからヒロシマまで平和行進をするんですが、そのオーガナイズ(手配)を手伝ってくれませんか。」

正直に言えば、それは瞑想の祈りで、一番避けたいと思っていた答えだった。5千マイル(約8千キロ余り)を歩き、10ヶ月間に及んだ。中米、北米平和行進のオーガナイズの疲れから、僕はまだ回復してはいなかったのだ。神は電話番号を間違えてしまったのではないだろうか、と自問してみた。しかし、その2ヶ月後には、僕は笹森上人と一緒にボスニアの地を踏んでいたのである。

3回にわたり現地に足を運んだ事と、多くの祈りがたむけられた事が功を奏して、神の御意志と笹森上人の夢は実を結んだ。バルカン半島で、僕はまたしても50余名の巡礼者とともに、いつ戦闘が開始されてもおかしくない地帯へと進んでいったのである。10ヶ国以上を代表する人々から構成される巡礼団のために、ひょっとしたら人生を変えてしまうほどの経験になるかもしれぬ巡礼の手配をするのは、大変有難いけれど疲れる仕事である。疲労感の中で、「クロアチアやボスニアのような神に試された地で、自分は一体何の役に立てるのだろう。」と、思った。しかし、創造主は巡礼の途上で僕にそれを理解させて下さったのだ。

クロアチアのリピックは8千人ぐらいの人口の町で、1991年の戦争で崩壊している。現在は、国連の平和維持軍が、再び争いかねないクロアチア人とセルビア人を互いから引き離している。鉄砲の玉こそ飛んでこないものの、平和にはほど遠い有様だ。

一月の寒さの厳しい朝に、僕たちはがれきの山と化したリピックの町にたどり着いた。崩壊した町と人の魂が、僕を、死と混沌と憎しみの渦の中に放り込んだ。それは、戦争が終わった後に腐敗して残っている物質だ。僕は、重苦しさに圧倒されてしまった。しかし、このような僕のさめた感情とは裏腹に、リピックでは、クロアチアの伝統的民族舞踊のフォーク・ダンスと、暖かいお茶の歓迎を受けた。

初めのうち、僕は、このお祭りのような雰囲気に抵抗していた。輪になったり、二人組みになったりしてフォーク・ダンスに興じるよりも、断食と贖罪の祈りの方が、リピックの町ではふさわしいように思えたのだ。しかし、僕はだんだんと気付き始めた。この人たちはこの廃墟に二年以上も暮らしている。皆、ほんの一時でも苦しみと痛みを忘れられる機会を、心から求めていたのだ。僕たちは、彼らがそれをする機会と、世界から忘れられてはいないという希望を与えたのである。僕たちが施したことは、ほんの小さな事だ。だが、重要な事である。僕の仏教の師である、ティク・ナット・ハン師は、「苦しむだけでは充分ではない。」と、言っている。

100マイル(160キロ)を5日間かけて歩いた後、今度はモスタルという、リピックの廃墟を50倍にしたような町に着いた。3、4階の建物のあたりが、一通りがれきの山なのだ。数えきれない人間の心が、憎しみに感染していた。東モスタルでは、水道も電気も屋根もなく、苦しみを測る尺度さえも、もはやなかった。爆弾こそ空を飛んでいなかったが、そこには平和は存在しない。

モスタルでの最初の交流会では、戦争で多くの信徒を失ったカトリックの神父に会った。もの静かに語る神父は、悲しみに打ちのめされていた。彼の皮膚のすぐ下に、想像を絶する苦しみがあるのを、僕は見た。僕たちには、彼の苦痛を取り除くことも、信徒を蘇らすこともできない。だが神父は述べた。「数多くのジャーナリストや代表団が、この戦争を報道するために、ここを訪れました。しかし、ここに平和の祈りを捧げるために来たのは、あなたたちが初めてです。ですから、私はあなたたちの努力に勇気づけられ、心あたたまる思いがしました。」

僕たちには戦争を止めることはできないから、リピックやモスタルのような場所に足を運んでも、それは小さな不十分な施しであると思う。しかし、この人間性に対する暴行は、僕たちすべてのものに対する暴行なのだ。これを見て、何もせずにいるということはできないのである。僕は、ここに足を運ばずにはいられなかったのだ。僕たちは、体も心もひとつにつながっている。この事を知っているから、僕はここに来なければならなかった。バルカン半島の人々の苦しみは、僕たち自身の苦しみである。それは、ちょうどアメリカの病んだ魂が、ヒロシマ、ベトナム、エル・サルバドル、パナマ、ニカラグアの苦しみになっている事と同じである。僕たちは、互いに離反する愛と苦しみの申し子なのだ。

だからこそ、僕たちはここに来た。この自らをもって証言し、人々と一緒になり、その人たちを気づかい、「あなたたちは一人きりではない。」と、告げるために来たのだ。僕たちは、50年の共産主義によって人々が力を失ってしまった国で、”個人の普遍的責任”というものの例を示したのである。

僕たちは、自らの一歩一歩の歩みと、祈りと、断食を捧げる。そして、自分たちには知ることができない神の神秘の業のうちに、神が僕たちを、神の平和を創る道具としてお使い下さる事を信じるのだ。それは、ほんの小さな事でしかない。しかし、それを僕たちがする事が肝心なのだと気付いて、すべてを行なうのである。

(当巡礼の旧ユーゴスラビア地域の準備連絡役;オーガナイザー グレッグ・ハッセル)


エルサレムで記者会見

エーゲ海を越えると眼下の陸地の眺めが一変した。何と緑が一面をおおっている。ブタベストから3時間弱、1月29日午前11時過ぎ、テルアビブのベングリオン空港に着いた。

人々の表情がまた全然違う。とりすましたところが全くない。本音をぶつけあって話しをしている感じだ。ミニバスで東へ約1時間、エルサレムのアラブ人地区にあるファイサル・ユースホステルに着く。まわりのようすは高度成長期前の日本の下町にタイムスリップしたよう。喧騒のなかで生きることに一生懸命の人たちが忙しく動き回る。身なりは質素だがみんな誇り高く生き生きとした表情だ。

ホステルのすぐ目の前がオールド・シティ(旧市街)のダマスクス門。この旧市街は面積約1平方キロ。城壁を入って約15分も歩けば反対側の壁に突き当たってしまうほどの狭さだが、「歴史の缶詰め」という形容がぴったりの町だ。

1平方キロがさらにユダヤ人、クリスチャン、アラブ、アルメニアンの4地区に分かれているが、境界線で仕切られているわけではない。あらゆる種類の小商店がびっしり軒を連ね、客寄せに声を張り上げる。狭い小路いっぱいにトラクターのようなかっこうをした商品運搬用の車が走り回る。ここでは物乞いもどこかに誇り高さがあり余りあわれっぽい声は出さない。むしろ、その声は「困っている者にほどこしをするのは当然だ」というように聞こえる。ここではだれもかれもが人間まる出し。至るところで声高かな自己主張が響く。それでいて不思議ととっくみあいの場面には出くわさない。

さて「缶詰め」の方だが何の変哲もないちっぽけなみやげ物屋の目の前の壁がキリストが十字架にかけられる前に道端の女に声をかけられた場所だったりしてそのさり気なさに驚かされる。仰々しい看板で各所の押し売りをする日本の観光地とはえらい違いだ。イエスの生涯のクライマックスの場所となったゴルゴダの丘のあとに立つ聖噴墓教会もよほど気をつけて進まなければ見逃してしまう小路の奥にひっそりと建っている。

しかし腹が減る昼間は人間、どうしても気が立って来る。市内で銃を肩から下げて警戒に当たる若いイスラエル兵も緊張気味。なんとなく張り詰めた空気がただよう。

そんな雰囲気の2月3日午前11時からエルサレム市のプレスセンターで巡礼団の記者会見が行なわれた。出席者は巡礼団側が笹森、堀越両上人とアメリカ人ら7人。記者側が朝日、読売、共同の各特派員と外国人特派員数人。まず巡礼団側が巡礼の趣旨とこれまでの行進の経過、今後の行動予定などを説明、ついで質疑応答に入った。

「宗教はこれまでも平和を唱えて来たが、現実の世界では宗教が原因となって戦争がひん発している。この事態をどう思うか。」との質問に対し笹森上人は、「宗教を巡って深刻な事態が生じていることはよく承知している。この巡礼は私たちの存在そのものを反省するところから出発している。行進の終着点を広島に選らんだのは日本人として被害を受けたからということではない。人類の歴史上、核戦争が始まった原点の地という意味で選んだのだ。これからは国家というレベルでなく各国の草の根(ピープル)から平和を築きあげねばならない。行進は広島で終わるが、それで平和の運動が完結するのではなく、ひとつの過程に過ぎない。」と答えた。

また、アメリカのダンさん(カトリック)は、「宗教が原因となって戦争が起きているという事態を深く反省している。しかしこの行進を見てもわかるように異なる宗教が同一の目標をかかげて同一の行動をとることは可能だし、こうした動きを積み重ねることによって平和を達成しなければならない。」とした。

「異なる宗教の接着剤になっているのが日本山妙法寺」とも述べたのが印象的だった。

(松崎三千蔵)


道すがら(1)
            
エルサレムからベトレヘム、ベツフール、そして西北に向かって地中海沿岸のネタニア、そこからガレリア湖岸の山上の垂訓の場所へ。歩行巡礼の第一歩は軽く、ティベリアスの町迄。次の日はそこからナザレトへ。次の日はメギジ。そしていよいよ、イスラエルの占領地(1967年以来)、問題の抗争地、いわゆるウェスト・バンク(ヨルダン河西岸地域占領地の意味)に入ろうとして、関門で許可が在りず、一度エルサレムに帰ってから、再調整二日。結局十人一組の4ツのグループに分かれて、ウェスト・バンクの4ツの村を別々に訪問。そのあと、テレアビブ飛行場から20キロ位の場所に在る、ユダヤ人、アラブ人共同生活体のネペ・シャローム訪問。更に、エルサレム東方の、パレスチナ自治区エリコの難民地区訪問。そこで警察に守られての30分のお太鼓巡行。翌日、ラマラからエルサレムへの道のチェックポイントからのエルサレムに向かってのお太鼓巡行・・・・。

なんと、計画するだけでも気の遠くなる道程。しかも、抗争の危急状況の中で、予言者が計画したのではないから、予測し切れぬことが一杯。ヘブロンの殺戮事件の一周年目だとか。抗争地訪問の数日前、また当日の殺害事件とか。それでも何とか、初志を貫徹。60数名の宿泊所探し。班に分かれての毎日の食事の準備、土地の人との話し合いの設定などは言わずもがなの当然のこと。 

諸宗教巡礼だが、日本山妙法寺が主役をつとめているので、巡行の時は、お太鼓が中心になる。ティベリアスから、カナを通って、ナザレトに行く道は、上り道だから、無理をせずに、随伴のバスに乗れ、と云われたが、街路はそんなに坂はあるまい、と思ったのが誤算。最初の地区で、片肺の老人は力を使い果たし、あとの二つの地区で合流した他は、バスが止まるたびにバスを下りて太鼓を叩く。キリスト様の育った土の上に立ちながら、無心の涙に包まれて、「南無妙伽羅沙の処女」を唱えていた。

 そして「南無妙法蓮華経」のひびきは、歩く人たちだけからではなく、天からも地からも、前からも後ろからも、右からも左からもひびいて来るのを味わっていた。 「安らぎを齎す者は幸いである。神の子と唱えられるだろう。」 そのために、何が一番大切か、ということについて、私は山上の垂訓の聖堂で、詳しく話した。一つの核は、「我の根」が砕かれている、ということ。どんないいことをしても、それが、彼岸の風に誘われるものでなければ駄目だ、ということ。もう一つの核は、「他人のために泣く」というのは、その人の十字架の中に消えて祈ることだ、ということ。 そして、この旅の道すがら、民族や伝承の具体的表現の違いを超えて、どこからも、安らぎを齎す人、安らぎを齎す言葉に出会うことになる。

 レバノン、シリア、ジョーダン、と地中海に囲まれたこの聖地が、現代西欧文明(?)の侵入によって、その雰囲気を殆ど失ってしまったかに見えるなかで、素朴な優しい心に出会う事は、砂漠の中の水に出会うようであった。

 ベツフールの「和解センター」の所長さん(パレスチナの人)は単純に告白した。「聖地、というのは含み合いの土地なんです。みんなの土地なんです。区別する、という考え方は、西からやって来たのです」 ナザレトで出会った、ビザンチン派の大司教にきいてみた。このグループは、ローマカトリックと合流したのだが、この合流による統制のおかげで、古来の伝承が消されてゆきませんか? と言ったら、微笑みながら、 「闘っています。闘います」 と云われた。 ウェストバンクへ入ることが出来なかった時、セバステとおい一つの町から、ファックスが届いた。

 「私達は、大変むずかしい仕事に直面しています。しかし、若し、私達が一緒に手に手をとってやるなら、そして、人間の精神にくっついて邪魔をする肉体的執着から清められるなら、実現可能な仕事です。

 皆さんの聖なる巡行予定を変更させた、説明の出来ない障害を、本当に残念に思います。

 それでも、それでも、私達はお待ちしています。   

エルサレムに着いた翌日、巡行団責任者の了解を得て、私は、生命の恩人の家を訪ねた。朝日新聞の支局の方が連れて行ってくれた。アメリカのキッシンジャーが和平交渉の為にこの辺りを駆け回っていた頃、聖公会の友人から、「この地に、ユダヤ人とアラブ人の友好の核をつくって欲しい」との声がかかった。それが私の最初の聖地訪問となったが、ユダヤ人夫妻がその時、友人と共に飛行場に迎えに出てくれていた。

 その後まもなく、私はベトレヘムのイエロニモの洞窟で、ミサ後急性肺炎で倒れたが、戦争中のため、戒厳令によって日没後は誰も外出不能の状態であった。ユダヤ人夫妻は、それでも駆けつけてくれて私を病院に運び込み、私は一命をとりとめた。

 彼らは、ヨーロッパから当地に移って来たが、シオニズムは彼らの心の故郷には成り得なかったのだろう。その心は東洋と禅とに誘われて行った。

 新しい養老マンションを訪ねると、その家の空間は、老師たちの字と、墨絵、道具、と全く日本の生活空間であった。 主人がひとこと言った。 「今日は忘れ得ぬ日だ」 彼らの孤独は、私の骨の髄に滲みている。

 ネベ・シャロームを訪ねた時、創立者のブルーノ神父は不在だった。彼は翌日、エルサレムの「イザヤの家」の門前で私達を待っていた。

 私が自己紹介をした時、私を見ていたが認識しなかった。20年近く前、私がこの地へ黙想指導に来たことにふれると、「ああ、あの皆から時計を取り上げた」と思い出してくれた。そして私も思い出した。お互いに会うことを望んでいた同志だ。彼の仕事の話をきいて、私は彼に委せることにして、この地を去ったのである。

 彼の話の中で「宗教という言葉はきらいだ」と云った。そして信仰は素朴さ(ナイフ)だ、とも言った。ネベシャロームで、最初は、ユダヤ、回教、キリスト教の三大宗教を象徴する三面の屋根の聖堂を考えたが、いわゆる無神論者に、私達のことも考えろと云われたし、沈黙の中で神のやさしい声をきくことが大切なんだと、丸い沈黙の洞窟聖堂を建てた、と云った。彼に祈りを教えたもの、日の出前の小鳥の啼りだった。対話の現実のむずかしさも単純に告白した。

 二人だけで話し合う時間もなかったが、その必要もなかった。未来は共に、神様の手に委せたままだから。同じドミニコ会の自由の時空の中で、ユダヤ人の日本人もなかった。

 沈黙の洞窟の中での、共同の沈黙の祈りは、この諸宗教共同巡礼の祈りの根をしめしている、と私は感じた。

 

お太鼓の道すがら(2)

イエルザレムで、パレスチナのイスラエル占領地区に入る前と、ガザ自治区に入る前十人位が自分の旅路を選ぶ。

 イスラエル、パレスチナ巡行の最後の地区は、南のガザ自治区であった。そこは問題が多いとか、何が起こるか分からない、と言われていたが、境界地点では、警察と軍隊の車が待っていた。その夜はガザの体育館で泊り、翌日、ガザからバスで暫らく行った所からお太鼓。昼は軍の司令部で簡単な食事、そのあとの巡行中、一つの思いがけぬ景色に出会う。ラファーという町が、エジプト側とイスラエル側に、鉄線で分断され、家族も分断され、家族同志の交流が出来ぬ侭になっていた。北朝鮮、韓国の状況と酷似。その夜はガザの公民館で、土地の若い人々を中心にした歌とダンスの歓迎。笹森上人が、ニカラグアとそっくりの雰囲気だ、と云う。
そして翌日、イエリコの苦難の関門を通ってヨルダンへ。ヨルダンへは先行していて、イラク入国手続きの努力をしていた。

イラク入国を自発的に断念したのが、二三人。あとは手続き上の事でヴィザが下りず、結局、イラク入国したのは、チリー人二名、ドイツ人二名、イタリア人一名、日本人十五名、米国人十六名の三十六名。

何時ものことながら、何が起こるか分からぬままに国境を越える事になる。即ち二月二十六日朝七時半に、アンマンのNew English Schoolを出発。国境迄六時間足らず。ヨルダン側の関門で一時間以上、イラク側で一時間足らず待たされ、宿泊所についたのは夜の十時半。出発前日、翌日の宿泊はバグダットホテルだ、ときいて戸惑った。私など、国境を越える時始めて、公的派遣団として取扱われている事を知る。ラムジークラーク氏のファックスを思う。国境では、二台の軽トラに乗組んだ護衛隊員が待っていた。ホテルが政府管理になっていることもあとで分かる。

バグダットに入った時、破壊の跡が見えないのが不思議だった。或男はバスを降りながら云う、「バグダッドは爆撃されなかったんだよ」然し、事実は違う。バグダッドは十分おきの爆撃に曝され、二千から三千の飛行機が襲来した。その説明に応えるかのように最初の日二月二十七日の訪問は、ミュゼウムから始まった。爆撃戦果の詳細と再建の詳細を模型で見せられた。(公的使節団だから、こちらの希望を聞いた上で、イラク政府側と共に訪問計画を立てる)一九九一年一月の爆撃の直後、独りでこの地を訪れた下田氏が云った。「ここの人達は、とに角タフなんです。爆撃直後の人々の親切も忘れられない。」私など再建の情況を驚愕するだけだったが、後日、カルディアン教会派の枢機卿から「あわてて建てたものだから、どの位堅固かは分らない」との註釈もあった。

 その日の午後は、文化、情報、担当相(acting minister)と会う。

午前の内部会議で、中心的部分は既にイラク問題に詳しい、ヴェテラン・アクチヴィストのジョン・シュチャルド氏が纏めていた。−イラクは石油資源による富める国の一つで、八十パーセント食料と薬を輸入して来た。今回の戦後の経済封鎖により、ここ数年で百万人が飢えで死んだ。その半数は幼い子供達である。広島、長崎の五倍の爆弾を落とされた後、この殺戮が恒常化されている。貨幣価値の暴落で、社会安定も不能。国連によるこの制裁のため、どの家庭も、朝になると今日一日をどう過ごすのか、という事を考えている。クエートの問題は、法的公的に終わっているのに何故、制裁が除かれないのか? いろいろの病気が国中を覆っている。何故なのか?−と切々と彼は訴えた。

担当相も、制裁の問題を取り上げた。
−問題の中心は、石油利権の問題だ、と思う。イラクを含め、この地区は世界の石油の八十パーセントを産出している。アメリカのブラウン氏は、「世界の統制は石油の統制に在る」と云った。統制だけではなく、アメリカは安い石油を欲している。イラクとしては出来るだけ恒常的な値を提示している。不正な価格はよくない。オペックも一九九一年迄価格安定化を行って来た。アメリカは、石油の売却金がアメリカに投資されることを望み、その為の経済構造を造りたがっている。アメリカは、イラクやサウジアラビアを統制したがっている−

私はふと、一九九三年の十一月訪米した時、石油代が、ヨーロッパの三分の一、日本の半分になっているのに驚いたことを思い出した。それに、石油の統制が、日本やドイツの経済の統制に役立つ事も確かなことである。

それから、彼は、石油の売却金が、文化的に投資されてきたこと、文盲率が極めて低くなったこと、三分の一の人口が、大学前の教育を受けていること、二十六の高等技術学校があること、などを語った。そして制裁の結果、いろいろの必需品の輸入が拒否された具体例を報告した。

一つの例は、子供達の学校で使う鉛筆の輸入の拒否である。その理由は鉛筆の芯で武器が作れるから、というのであった。「これは、冗談ではないんです!」昨年は米と麦の輸入も拒否された、と云う。みな証拠文書を手にしての説明であった。

 石油統制の外の、もう一つの問題として、「対話がないと、どちらも悲惨な未来を受けることになるのに、戦争を行わせて、両側に武器を売ることを考えている」問題を取り上げた。

その翌日、二月二十八日の午後は、民間人からの声に耳を傾けることになった。イラク女性協会会長の彼女は、同じ問題を、女性の立場から語った。

−イラクの半分の人々は女性です。女性は、家庭の責任と、子供への責任を持っています。

 一九六七年以来、何回も大統領を訪ね、女性の社会的位置向上に努めて来ました。健康衛生の分野では三十六%が女性です・・・議会にも二十人の女性が居ます。然し、湾岸戦争の後は状況が変わりました。働きに行くのを止め、家庭に止まり、食物を確保する努力に集中しています。既に多くの子供が学校に行くのを止めました。子供も働きに出ています。この女性協会の支部が全国で二十五、支部のブランチが二百二十六あって、何とか必要に応えよう、としています。宗教の差も国籍の差もありません。下着作りから、古布での着物づくりから、何でもやります。そして所有している物を何でも売って、食物を買います。それももう限界に来ました。売る物がありません。だけど私達自身信じ合って、植民主義野望に抵抗します。国連に新しいゴールを求めます。

北と南の問題もあって、イラクの二分が考えられているようですが、それも越えてゆかねばなりません。そして人民そのものが、大統領を選ぶべきだと思います。

こういう状況の中で皆さんが、ここに居らっしゃるということが、私達にとって、どんなに大きなお恵みなのか、計りしれないお恵みなのです。今、この地の人々にとって皆様は、大切な大切なお客様です。−

ジョン・シュチャルトが一寸介入して、

−アメリカでは刑務所が一年で倍増しています−という事情を告げると、彼女は受けて、こう続けた。

−私達は、すべての人間の善意を信じます。何故、この地に、八万五千トンの爆弾が落とされたのですか?アメリカや、その連盟国に石油の利権について、「いいえ」と云ったからです。各々の土地の住民は各々の土地の資源を大切にしたい。この闘いは、人類のための闘いです。アメリカの人民も苦しんでいます。私達も至難な状況の中で頑張っています。皆様の、この訪問を、将来の歴史は必ず語り継ぐでしょう。−そして最後に彼女は、こう云ったのである。

−皆さま! 本当にお幸せに!

−久しぶりに、おふくろに出会った気がして来た。

 そのあと、厚生省を訪ね、担当官から医療の壊滅状態についての説明を聞く。その中で、一九九一1年迄”Life Saving Drug”(救急薬品)を送ってくれていた、イギリスの団体から、送り出す許可なくて送れぬ、という連絡があった事も報告された。

 そして午後、遂に私共は、バグダッドの二つの公立病院の一つを訪ねたのである。

何と、病人が居ない! ベッドはガラ開きだ。子供達が学校を捨てたように、病人達は病院を見放した。大きな病室をいくつか過ぎて、未熟児の病棟に行った。育児器が五つか六つあるうち、機能しているのは一つだけだった。そこには一人の未熟児が寝ていた。その周りに、泣き続ける未熟児を唖然と腕の中で見守っている母親とが何組かいた。待っているのであろうか?

「この一つ以外、みんな壊れているんですよ!」若い医者が、悲しみの声でそう云った。

−「医者は医者なんだ! 患者は患者なんだ! 何故なんだ! 何故なんだ!」−

泣いている赤子の顔。ふくれた腹を見つめ乍ら、私は涙がとまらなかった。

近くに、二十才の寝たきり病人がいた。栄養不良、肺炎、いろいろの病気で医者は、もう長くはない、と説明していた。傍らで見守っていた母親は、英語が分からなかったのであろう。じっと静かにわが子を見守っていたが、何かがあったのか、突然、説明する医者をじっと見上げた。その目は涙ぐんでいた。また一つ、忘れることの出来ない顔に出会ったのである。

病院には、浄水の機能もなく、注射針の消毒も使えない状態であった。

一人の急救患者が担ぎ込まれて来た。あごの下がさけている。ヨードチンキが何かの消毒だったのだろうか?消毒したらしい針で縫い始めた。麻酔薬も使わない。

生活出来ないから、医者も病院を去ってゆく。医者は医者なんだ、患者は患者なんだ、と云った、この医者の月給(日給ではない)は、五百円(五ドル)。妻と二人の子と親をかかえている。幸い、彼の父が農業をやっているから、何とか食い継げているのであろう。

翌三月一日、私達は軍隊に守られて、クエートとの国境の町バスラへ向かった。そこで死去した人々の慰霊のためであった。

道路が終わった所の草原に輪になってお線香を一人一人献香し、お太鼓を叩き、合同祈祷をした。終わった時、テレビのグループがインターヴューに私に近づいた。「この土地に立って何を感じますか?」私には実感が湧かなかった。それもその筈、この境界線はクェートとの国境から六十キロ、イラク側に入っているのである。境界には大きな側溝が造られている。そして、私共の通って来た道路は、問題の道路とは違う道路なのである。

私が、大量殺戮兵器を人民に向かって使うことは許されないことを語っているうちに、ヘリコプターの音が大きくなって来て、つづけられなくなった。気付かぬうちに、ヘリコプターは道路に着陸していた。ガーナ人とケニア人のUNの兵隊がやって来て、国境は、黄色い標識の立っている所、即ち道路の終っている所だから、そこ迄下がるようにと注意した。私達が何をしているのかを告げた時、ガーナのアフリカ人の兵士が云った。

−ルアンダには行かないの?ルアンダのことを忘れないで下さい!祈ってください!−

実は、イラクに入ってからも、私にはがっかりしたことがある。それは、イスラエルの聖地と同じように、ここにも現代西欧野蛮主義が侵入していることであった。それは、人間中心主義、物質主義、幻想的野望、による文化伝承の破壊を意味していた。もう一つのアメリカが、ここにも在ったのである。バスラで宿泊した、政府管理のシェラトン・ホテルの前の道には、大きな川に沿って、イラン・イラク戦争で、多くの敵兵を殺した八十八体の英雄兵士の像が、一人一人、イランの方を指しながら立ち並んで居るのを見た時、同じ軍国主義の雰囲気を感じた。

バビロンで、ナブコードーソルの根拠地の廃墟を踏み、交代を続けた皇帝支配や相互侵入の歴史を目のあたりにした。同じ路線を行く者は、バビロンの後を追うだろう。

しかし同時にこの土地は聖なる土なのである。

 バビロンの近くの村でアブラハムは生まれ、ベトレヘムにイエズスが誕生した時、訪ねて行った東方博士の出身地も、この土地なのである。メッカはクェートに在り、マホメットも、この地域の出身だ。

イラクが、今、この土地の一番深みの地下流に目覚めることを祈る心、切なるものがある。

三月三日、カルディアン教会の枢機卿と面会した時、一番大切なこととして彼が云った事は、ここイラクでは、イスラムの国でありながら、宗教上の差別は全く無く、宗教教育は学校教育の義務であり、各宗教団体が教科書を用意して教えるのだ、という事であった。

三月四日、スーニー派のサバラのモスクでは、お祝いの日で人々の多勢群がる中、周辺を三回お太鼓を叩いて巡ったのであった。歴史の将来は、このことを語り継ぐことであろう。

帰り途、お師匠様のお声が聞こえてきた。

−皆にも云って下さい。

いつも、常識的で、謙遜でいるように。

そしていつも、菩提の心の中に消えて行くように。そして、大切なことは、生き身が、われ、それと知らず、菩提の境涯を説き示すことなのだ、ということを−

その日の夕方は、町の一つの家族から招待を受けた。「野菜だけの簡単な食事ですけど」と云うので私など言葉通りに受取っていた。ホテルでさえこの社会の現状を、これでもか、これでもかと見せられるのだから。然し、家族四人で心を込めて作った多彩な精進料理が待っていた。アフリカのガーナの飢饉の時、一人の女性が、一日三回心を込めて料理を作ってくれた事。そして彼女は一日一回、然も貧しく食べていた事を出発の朝に知ったことを思い出した。温かさに包まれる。主人からは「御招待を受けて下さって有難うございます」という言葉がくり返し帰って来た。

三月六日、私共はアマリアのシェルターを訪ねる。科学、細菌兵器を核兵器に対するシェルターである。USはこの一般人のシェルターを標的に選んだ。最初のミサイルで失敗すると、設計と施工を受注したフィンランドの会社を探し、設計図を確かめ、十九日で二つ目のミサイルを作成して、同じ場所に打ち込んだ。一階は火の海。地下の風呂などのサービスエリアは熱湯の海。外の扉に爆風で飛ばされた幾人かが助かっただけだった。母親が焼け死んだあと、腕に抱かれていた幼児が助かったケースもあった。

行く道でのお太鼓とシェルターに八時半頃着いてから、午後の三時迄の殆ど小一日のお太鼓。そのあと献香とお経と話の供養の式。生き残りの人々の話。

現代文明の傲慢による残虐な行為を自覚させるために、どうしても優しい牢獄を用意しなければならない。法律家、宗教家とそして苦しむ民による国際人権法廷の現状が、最初の梯子の階段だろうか?

私の心には、苦悶の闇に、希望の灯が明るく灯った侭である。私の身体には、既にいくつもの、決して消えることのない声が、ひびいているのだから。 

(押田 成人)


イラク緊急証言レポート


2月26日に「生命と平和への諸宗教合同巡礼1995」の中36名がヨルダンからイラク側国境に向かいました。この時は、国境を越えた後に、想像を絶する戦慄と人類にたいする犯罪を目撃する事になろうとは予想していなかったのです。

1991年の1月と2月に、テキサスの3分の2ほどの地帯が史上最大規模の軍事攻撃を受けた42日間、爆弾を満載した軍用機が毎日爆弾投下を行いました。4年後の今でもこの戦争は続いています。それは、食料や医薬品の供給をも絶つという極めて非人道的な経済制裁です。国際法では食料および医薬品の禁輸は非合法とされてはいるものの、イラクの海外資産の差し押さえによって、それらを必要な量だけ購入し国内に運び入れることが、困難になっているのです。

バクダット市内の病院を訪れた時には、巡礼団は1つしか作動していない保育器をぐるりと囲みました。腕の中で死んでいく赤ん坊を抱いてやる事しかできない母親の脅えた、必死のまなざし、1991年の湾岸戦争が始まってから、コレラ、肝炎、気管支炎のような絶滅した疫病が再び広まり基礎的な医療薬もなく、栄養失調に陥り死んでいった50万人の子供や老人。この母親の腕にある赤ん坊がその数に加わるのは時間の問題でしょう。手術用の全身麻酔は、その製造過程で発生する亞酸化窒素が軍事目的で使用される怖れがあるとして、供給が停止されています。帝王切開やその他多くの手術は、全身麻酔なしで行なわれているため、激痛から死に至るケースもあります。放射能漏れしているミサイルの使用に起因すると言われている癌は未だ解明されていません。

学校から子供たちが離れていってしまう率が増加し、教育は失われ、識字率も低下しています。家庭の経済を助けるために多くの子供たちが学校を去りました。かつては支給された学校用品も今では不足しています。鉛筆という最も大切な読み書きの道具は、それに含まれる鉛で大陸間弾道弾を製造する恐れがあるとして、輸入が認められませんでした。

私たちの国交代表者たちは、湾岸戦争に責任を負うべきG−7の各国のスーパーパワーから構成されているが、彼らは、「世界中が、本当に何が起こっているかを知ったら、この現状を許しはしないだろう。」と繰り返し私たちが述べたのを聞いているはずです。アメリカは戦争中もその後もメディアコントロールし続けているため、じわじわと虐殺されていくイラクの人々の苦しみは、世界の耳には届かないのです。

アウシュビッツから広島まで歩くこの国際的な諸宗教合同の巡礼者である私たち、精神的指導者、活動家、帰還復員兵、教師、学生、親の面々は、東ヨーロッパ、旧ユーゴスラビア、中東が人類と環境そのものに引き起こした苦しみをつぶさに目撃してきました。その私たちは、イラクの病院で、女性団体で、「あなたは何ができるか。」と問われました。イラクの人々の旨を広め、この苦しみのメッセージを世界に伝えたいという誓いが巡礼者たちの口から出ました。

これから巡礼団は東南アジアへ祈りと証言の旅を続けていく事になるが、この緊急を要するメッセージを携えていくでしょう。どうかこのイラクからの声に耳を傾けられる方々が、平和を想う集まりのコミュニティが、私たちの友人がしかるべき行動を取って下さるように心からお願いいたします。

アルアマリアの避難施設の1、500人の女性と子供たちが蒸し焼けにされた黒こげの跡や、道幅一杯に広がる爆発したバスの破片は、見るに耐え難いものがあります。

経済制裁のために今も一日300人の割合で人が亡くなっているそうです。この非人道的な経済制裁は60日ごとに更新されています。どうかこの経済制裁の速やかな解除が行なわれるように御協力をお願いします。

例えば、

・この文章やその他のイラク経済制裁の現状を記した情報を仲間たちと分かち合う。

・あなたの国の政府や国連などに解除を求める手紙を書く。

・各平和団体にイラクの経済制裁を解除するために働きかけてもらうように連絡を取ってみる。など方法は無限であると思われます。

私たちは巡礼後もこの問題について活動するつもりですが、巡礼中は下記に詳細をお問い合わせ下さい。


日本山妙法寺 レベレット道場 「連帯の種」宛
100 Cavehill Rd.Leverett,MA01054

(リッキー・バルク、デビー・ハビブ)



イラクは訴えます

私たち巡礼団は、'95年2月26日から3月8日までの11日間、イラク国内に入国することができ、(しかも、政府招待というかたちで)いろいろな状況をみせてもらいました。

私は、入国前は、どちらかというと、サダム・フセイン大統領にはあまり良い印象をもっていませんでした。これは、アメリカによる報道を真に受けていたせいだと入国してから理解できました。

イラクという国は、1958年にイギリスから独立し、王政を敷いていたが、1968年にサダム・フセインによるクーデターにより、フセイン大統領の軍事政権が樹立するが、それが今に続いている訳です。しかし、軍事政権のもつ種々の弾圧、たとえば言論の自由がないなどの暗いイメージは、全然感じませんでした。軍事政権とは言っても、1968年の革命は、バース党という社会主義的な考えの強いグループによるクーデターのせいではないかと思います。

実際サダム・フセインは、クーデターによって政権を握った訳ですが、どんな政治をしたかと言うと、すごい善政を敷いたと私は確信しています。まず第1に、石油の利権を国家のものとし、それを王政時代のように特権階級の利益にのみ使うと言うことではなく、イラク全国民のために使っています。石油を売った莫大なお金は、まずイラク国民の教育費と医療費に使っています。この湾岸戦争前までは、イラク国民の教育費と医療費はタダでした。そして、西洋に追いつこうと、あらゆる努力をしている様子があらゆるるところにうかがえます。まず目につくのは、高速道路・建築物の充実ぶりです。そして、教育制度・医療制度の充実。私は、つい明治時代、日本が西洋に追いつこうと種々に努力した姿とだぶって、イラクの西洋化を見てしまいます。日本人の意識の中にも根強く残っている西洋化への憧れみたいなものを、イラクの人々にも感じました。ただ日本の場合とイラクとの大きな違いは、石油があるかないかの違い、つまり日本も明治時代は大変貧乏だったけれど、イラクは石油がある分だけ、ものすごいお金持ちだという、大きな違いを感じました。しかし、この石油がイラクを今の状態に 落としめた原因でもある訳です。

そして、フセイン大統領の政治は、イラク国民に、一生懸命、まじめに働けば、生活がどんどん向上するのだということを、国民の目の前で実現させていった。当然、中産階級が増え、教育程度の非常に高いプライドを持った素晴らしいイラク国民が増えて行くことになったのです。そして、イラクは、アラブのリーダーにならんとした訳です。アラブの利権を守るために、アメリカにNO!と言った。イラク国内でのフセイン支持率者は相当量にのぼるようです。・・・で、アメリカの反感を買った。イラクは、アメリカを中心とする(石油資本家)にメタメタにたたきのめされる訳です。

戦争の悲惨さを説明する前に、イラクという国の人々のことをいくらかでも説明しておきたかったので、こんな文章になりました。とにかくイラクの人々は、教養があり、タフで、プライドが高く、素晴らしい国民であると私は思います。

市川 隆子


巡礼日記


2月26日

市川隆子

朝6:00に学校を出発ということで、5:00に起きて荷物をかたづけ外に出てバスを待ってみたが、待てどくらせどアラブのバスは到着せず、約1時間半程遅れてやっと現れた。
バスに乗ってみると網棚や座席の下、後部座席などにコーラ、ジュース、粉、ヌードルetcの食料品がびっしりつんである。我々の食品かと思ったらどうもドライバーの小遣いかせぎのアルバイトらしく、一同唖然とする。これが朝、到着の遅れた原因かと考えられ、皆腹を立てたが、こういうことでもしないと中々、かせげないのが現実のようだ。校門の前でインド行きの人々と別れて、バスはアンマン市内を抜け、しばらくして、バグダッドへ向かうハイウエイ#30にのる。町の外は一面の砂漠(赤土の上に黒っぽい小石や岩がゴロゴロしている)で、所々にテントやイヌ、羊たちの姿も見える。窪地になった所に、大小の水たまりがみえる。

AM9:00、オアシスのある町に着き、休憩。大きなタンクローリーや生活必需品、食糧etcを運ぶトレーラーが数台止まっている。学校からずっとパトカーが先導してくれている。そして、もう2つ程の町を通過してから、国境にたどり着く。ここまで5時間半かかった。

ジョーダン側の出国審査の間、ジュータン敷きで、リファが置いてある大広間に通され、30分ほど待つ。KINGフセインの大きな写真が飾ってあり、待遇の良さに皆喜んだ。出国OKとなったが、取られるはずの出国TAX8ディナールは払わずにすんだ。

100mぐらいバスに乗り、今度はイラク側のボーダーに入る。入国審査事務所前に、白いベンツと4〜5人の、背広をきたお役人風の人たちが出迎えてくれ、皆これは大変なことになったと、衣を正しバスから降りる。先程の部屋より又、一回り大きな広間に通され、入国カードを記入し審査を待つ。サダムフセイン大統領の大きな写真が正面に飾ってあり、中々センスの良さが内装にうかがえる。時計を見ると、ここで時差が1時間あり、時計を進める。

PM3:30、全て終了し入国OKとなる。
タシーンアルバン氏(外務省代表)と及び「平和と連帯・友交」という団体の代表カリム氏が歓迎のあいさつを行い、政府の車が先導して、バスはバグダットに向かうこととなる。

イラクに入るとハイウエイは西欧諸国と何ら変わらない。すばらしい道で、そのデザインも一流で皆びっくりする。アンマンでサダムフセイン大統領になってからのイラクの社会資本の充実はすばらしいという話を聞いていたがどうも本当のようだ。1時間ほど走ったところでバスが止まり、何事かと思ったら、先導の車よりお弁当(イラク航空の機内食)のさしいれで、皆びっくりして手をたたいて喜ぶ。イラク側の砂漠は、岩が少なく赤土の上に、緑が広がっている。又遠くにメサのようなものが見える。6〜7時間走って、夜中の10時過ぎにやっとBaghdad(バグダット)ホテルに到着した。

町の中の道路も本当によく整備されている。大きなホテルでロビーの前に3つも「歓迎、平和と命のための諸宗教合同巡礼団」と書いた横断幕が張ってあり、皆驚くと共に大喜びする。歓迎の中で、ロビーに通され、各自に1部屋づつシャワー付のホテルルームが与えられる。今日から3月8日までここの部屋代と食事代は全て政府の方でご供養してくれるというので、この準国賓待遇に皆感謝の念を述べる。夕食を頂いてから、皆このすばらしいアラブ式接待が信じられない顔をしながら、それぞれの床についた。

2月27日バグダッド

武井鏡憲

朝、ホテル内の広間で合同礼拝のあと、ミーティングがあり、イラク政府側からこの行進側に対して出されている17ケ条の条件についての説明が笹森お上人よりあった。

ここにいるアメリカ人、日本人、ドイツ人は、今回の湾岸戦争、そして今も続いているブロッケイド(経済封鎖)に対して直接の責任があり、現実にこの国で何が起こったか、そして今も起こっているかを、人々の話を聞くことにより知り、その苦しみを共有し、又我々の犯した過ちに対する深い反省の念を持たねばならない。そしてこの後に、自分が彼らのために何ができるかを考えねばいけないという話があった。

又、ジョン・シューシャード氏からは、このチグリス・ユーフラテスぞいの文明の発祥地、そしてハムラビ法典編纂の地、アブラハム・サラの誕生の地で、この戦争によって2百万人の人々が犠牲になり、42日間、連日2000〜3000機が夜中に爆撃を続け、町の基本設備(上下水道、電気etc)が破壊され、又そのあとのサンクションで53万人もの子供達が、栄養失調や伝染病などで亡くなっている。これは、市民に対する戦争継続行為であり、今回このかけがえのない機会に見・聞きしたものを外の人々に伝えることが重要である。又、この行進は、真の深い意味での祈りの行進であり、ここにいる我々の肉体の存在のみが、ここの人々の受けている苦しみを背負い、共有することができるという話であった。

朝食後、AM10:00よりホテル内のミーティングルームで「友交、平和の連帯」という団体の代表のカリム・ムザール氏の話、及び質疑応答があった。」その前にホテルの前でTV,新聞etc. の一斉の取材があり、皆でお太鼓をたたいて、ホテル前の庭を一周した。

氏は、この困難な時に我々を訪ねてくれた。とても大切なことであり、今イラクで起こっていることは、人間性に対する虐待、又子供たちに対する虐待であり、このような行為が行われたことは、とても残念である。国際法は、市民の殺りくを禁止しているが、この法をつくった国、自らがこれを破ってしまっている。戦前は、中東の中でも豊かな国の一つであった。しかし、80%の必需品(食品、医療品etc)を輸入にたよっていたので、経済封鎖の後、4年間で100万人の人が死亡し(うち半分は子供)、貧困に見舞われる国へと転落した。人々は食物を得るため持ち物を売らねばならず、又インフレがひどく、働いても十分な食物を得ることができない。政府の教育、医療、社会保障etcのサービスはストップ状態で、人々は毎日病気との戦いに明け暮れている。アメリカは、クウェートから撤退するということの交換条件で、この封鎖を解くはずであったが、戦後もこれを続け、国連を通してイラクの人々の命を奪いつづけている。アメリカはイラク内の人権問題の解決を条件に、この封鎖を解くと言っているが自分のやっている事自体が、深刻な人権侵害である。人権問題は世界的なものであ るが、米国はいつもこれに対し、ダブルスタンダードを用いている。そして、この封鎖を正当化するためのいかなるドキュメントも提出されていないという話であった。

昼食後、バスで情報・文化省に出かけ大臣と会見し、お話を聞く。
PM1:00、軍服を着た、落ち着いた感じの人で、ていねいに又わかりやすく色々説明してくれた。
中東は世界最大の石油地帯であり、米国はこの戦争を通じて、中東に介入し、石油の価格決定権をにぎり、それによって、ヨーロッパ、日本、アジアetc世界中をコントロールしようとしている。イラクは、25年前まで貧乏な国で、70%の人々は、十分な食事もとれない状況であったが、1968年の革命以来、この石油のお金を人々のために社会資本を充実させることに使い、45年前小さな大学が一つしかなかったが、90年には、18もの大学ができ600万人の学生、そして4千万部もの印刷物が学生のために作られるようになった。又ハイテク専門学校や、劇場もでき、アートも盛んになった。イラクのアーティストは、国際的にも高く評価されている。
そしてユニセフから、中東最上の国のひとつに数えられていたが、戦争とこの4年間の経済封鎖により、この国の医療システムは根本から破壊され、5才以下の子供たちの病気は、以前の7倍にも及んでいる。ほとんどの薬は輸入に頼っていたため、今では極端な欠乏状態となっている。歯科医療品は以前の30%弱のサプライしかない。
印刷物、TV,ラジオのパーツ、そして鉛筆さえ輸入を禁止され、1992年に4月にパキスタンから1億円の鉛筆を輸入する計画をたてたが、UNはこれを拒否した。又、8,000点のカレンダーを送る計画もあったが、これも実現できなかった。又、タイとも25万(t)の米、26万(t)の麦を輸入する契約をとりつけたが、UNはこれを拒否して今だ答えが出ていない。この件に対して、CNN、BBCのインタビューを受けたが、彼らはこれを放映しなかった。戦前は1日当たり3億2千万円の輸入が行われていたが、今は500万円相当しかジョーダンとの間で許可されているだけである。インフレの影響で生活のコストは200倍にもなってしまった。エンピツを輸入するとイラクの中でこれを爆弾づくりに使用するというバカな理由で子供たちの教材もない状態だ。
元司法長官のラムゼークラーク氏(米)が、何回もこの国を訪ねてくれた。彼は真のクリスチャンであり、この不当な経済封鎖に反対してくれている。
私は、この行進のグループを良い信念の持ち主として、そして我々の友人として歓迎したい。いつも善の魂を持った人々が、世の悪に対して立ち向かい戦い続けて、人類の歴史が続くことができたと話を結んだ。
そのあとでジョンが、今の大臣の話は本当のことであり、我々はこれを自分の国に持ち帰り、世界中の人々に知らせなければならないという、結びの言葉でしめくくった。
それからホテルに帰り夕食を食べたが、その時に地元の小説家というイラク婦人が話をしたいと現れ、食事後にロビーで皆で回りを囲んで、女性の立場からのイラクの現実の話を聞く。これは真剣だ。深刻な母の立場からの主張であり、皆魂をゆさぶられた。

そのあと、PM9:50からTVで我々のことが10分間放映された。


2月28日 バグダッド

武井鏡憲

朝8:30にバスが迎えに来て、イラン、イラクの戦争の戦没者記念碑へ参拝に行く。大きな桃を2つに割ったような建物の中心にイラクの国旗をかたどった彫刻があり、笹森上人を先頭にアメリカ人、ドイツ人、チリ人、イタリア人と5人が2人の兵士、そして2人の楽隊に導かれて、そこに花輪を捧げる。そのあと地下に入り、メモリアルミュージアムを見学する。階段を降りる所に大きな円形状の滝がつくられ、これが戦争で死んでいった人の犠牲を象徴しているという。
このメモリアルは、バスラ生まれのイラク人によって設計され、モスリムのモスクを2つに割った形につくられ、片方は日の出の方向に向かい”生”を表わし、片方は夕日に向かい”死”を表わしているという。日本の三菱そして鹿島建設により、1983年に7カ月でつくられたという。驚くほど広い広場そして、その地下のミュージアムの床には、びっしりと大理石がしきつめられ、その荘厳さに一同口を開けてびっくり。これだけの建物が150億円でできたという!!
そのあと表に出て帰ろうとしたら、昨日の国営テレビのクルーが2人おくれてきて、もう一度、献花をやってくれという。皆でもう一度お太鼓をたたいて、同じお祈りを再び行う。
そのあと、イラク婦人連盟の会長さん(イフティカ女司)を訪ね、そのお話を聞く。イラク政府の方々は英語が皆うまいが、今回はアラブ語で通訳が着いた。これは、全国組織の団体で126万人の婦人(53%)をカバーして、226の支部があり、婦人の地位向上、生活改善、サポートetcの活動をしている。この会長さんの話は、すばやしく、とても感動的で心に訴えかけるものがあった。
-イラクでは、保健関係の仕事に36%の女性がたずさわり、農業関係は48%、教育方面は82%の女性がかかわっているという。又、12%の議会の中にもっており、医師、弁護士、教師その他全てのポジションに女性が活躍しているという。1968年7月の革命以来、婦人の地位は飛躍的に向上したという。そして、戦前は豊かな生活を保障されており、新生児死亡率も、大幅に減少していたという。
-しかし、経済封鎖によって、この生活は無残にも打ち砕かれ、家電用品も水不足で使えず、結局家庭内の仕事が大幅にふえ、又、夫の収入では食べられないので副収入をかせぎに行かねばならず、とても困難な状況にあるという。標準の1/3のカロリーの食事しか与えられず、病気が際限なく広がっている。その数がどのくらいか正確につかめない。又、子供たちに教材を与えることもできず、子供も又、収入を得るため働かねばならず、学校に行っていない状態だという。又、食べ物を得るために、家にあるものを売りに出さねばならず、それも底をついている。又、副収入を得るために、この連盟が女性に裁縫や編み物etcを教え、又、材料も供給し、つくったものを引き取り、売ったりもしているという。

-イラクはとても教育程度が高く、又、多くの人が海外に留学した経験があり、意識も高く先進国と変わらない。しかし、米国はこれを認めたがらず、封鎖を続けるための口実に、依然開発国のイメージを流し続けている。
又、クウェートやサウジアラビアが米国の後押しで、このイラクに対するサンクションを続けるよう圧力をかけたり、又、北や南の民族問題を持ち出し、イラク人を分裂させようと工作している。イラクは、モスリム、クリスチャンをはじめ、いくつかの宗教があり、、それぞれお互いをみとめている一つの国である。
-今回のあなたがたの訪問が、TVや新聞を通じてイラクの人々に良い影響を与えている。私達の声をあなたがたを通して、世界に伝えることができるということは、イラクの人々にとって希望になり、大変力付けられる。
-あなたがたは、神様が私達に与えて下さった贈り物であり、イラクの全ての家族は、あなたがたを客人として迎え入れる。そして、この行進が私達の声を伝えるという、責任を果たしてくれるものと信じている。あなたがたの行進がうまくいくことを祈り、これに対する援助はおしまない。封鎖が解けたときには、再びご招待したい。

特に、この行進によって、次の世代の子供達はとても良い影響をうけた。これに対し、千回もの感謝の念を表明したいと結んだ。大きな拍手が起こり、その後で、行進団から折鶴と折紙etc. を手渡した。とてもすばらしいフンイキの中で、会合は終了した。

次に、保健省へ行き、そこの秘書官の話を聞く。この経済封鎖で53万人の子供達が死亡しているという。
食物も不足し、クリーンWaterもなし。医薬品も不足し、しかし、これを輸入で調達できず、お手上げの状態である。医療サービスは全て政府により運営されており、世界のNGOやWHOなどからの援助は、細々と受け取っている。
しかし、外国の人々は、この経済封鎖について無知で、又、マスコミがこの情報をコントロールして流そうとしないため、我々の苦しみが続いている。どうかこのことを各国の人々に伝えて欲しいとの内容であった。

ホテルで昼食の後、いよいよ郊外の病院を訪ねることになった。町の中心とは打って変わって、道路にゴミがちらばり、そのゴミに羊が群がり、子供がどろんこの中で遊び回り、一見して病気のまんえんを想像させる。病院には黒いベールをかぶった女の人がたくさんいた。育児室に案内されたが、未熟児のための酸素を供給する機械が壊れていて、1台しか使えないという。2台に赤ちゃんが入っていたが、もう1台の方はライトしかつかず、酸素ボンベから、ホースを中に入れているだけである。生まれたての赤ちゃんも栄養失調状態で、又、ミルクもなく、点滴でその場をしのいでいるが、やがて死んでいくのを待つしか他に手はないという。抗生物質もなく、医薬品もほとんど無い状態で、消毒の薬もなく、ちょうど事故で運ばれてきた人のキズ口を、麻酔も消毒なしで針で縫っているという状況に、皆、言葉もない。300万人の町に2つのホスピタルで、60人の医師がいるだけで、その医師の給料も1月3000ディナール($6.00)で、皆、やっていけなくて離れる人が多いという。何の手を打つこともできず、死んでいく子供達を見守り続けるしかないという。この国では医者が一番人々の 苦しみを知り、又、自身も苦しんでいるという。又、飲料水をろ過する装置もなく、それがより多くの病気を呼んでいる。説明するお医者さんも、涙を流していた。とにかく、病院を掃除してきれいに保つのが、唯一できることで、人々もそのことを知っており、どうにもならないことがわかっているので、あえて病院までやってこないという。どれだけの赤ちゃんが各家庭で、何の処置もできないまま命を落としていっているかわからない。

我々も、あまりの現実の重さに声も出ず、ただ、自然に湧き出て来る涙をぬぐうのみである。自分自身の無力さに、何もできないことに対する悲しさに、うちひしがれた。ただ、病院内にいるこのイラクの人たちのやさしい顔が、我々を歓迎し、その訪問をとても喜んでくれ、又、我々が合掌すると彼らも合掌でこれに答えている姿。その信仰心の深さに心を打たれた。純朴なきれいな心をもった人たちだ。

とにかく大変な数の新生児が、次から次へと連日死んでいくという現実に対し、その命を助けるための医薬品の輸入すら許されないとは、国連の安全保障理事会とは、いったい誰のためのものか?

一部のオイルメジャーや、多国籍企業の利益に奉仕するための機関にしか過ぎないではないか?

アメリカの外交政策(ニューワールドオーダー)に対してNOと言ったことに対する答が、その人民の虐殺であるならば、アメリカの政策自体が、全人類の未来への生存に対する敵対行為である。

我々は、このような不条理を、決して許してはならないし、イラクに対する経済封鎖はすみやかに解消すべきである。又、このSanction解消のために働くことは、湾岸戦争の戦費130億ドルを支払った日本人の一人として、負うべき当然の責任であると共に義務でもある。

多くの苦しみをなめている人々の悲しみの涙とそれを助けたいと願う善念を持った人々の愛の心が、この悪魔の心を持つグループの心を溶かす日のくることを祈りたい。何の罪もない生まれたばかりの赤ちゃんが、親の顔を見る間もなく、天国へと旅立っていくというのでは、あまりにもむごすぎるのではないか。イラクの人々のサバイバルへの強い信念が、この苦難を乗り越え、未来へと希望をつなげますようにと、祈らずにはいられない。

合唱三拝


3月4日 バグダッド サマッラ

石井 佐紀子

バグダッドより北に約200km離れた古都サラッマへ向けて、AM9:00頃ホテルを発つ。

予想外に緑に覆われた赤い平野が炎々と続く。突然右手に金のモスクが見える。バスからティグリスを見下す。大きな神社に続く商店街のように、軒に肉や果物が並ぶ小さな店が並び、北部の方が戦争のダメージが比較的少ないという話を思い出させる。アブ・ダルフ・モスクは、215.5×138mの敷地を持つ。中心にドームがそびえ、2本の塔が立っている。金に輝くドームの屋根もそうだが、モスクを彩る紋様の精密さに圧巻される。これらのタイルは下地が塗られた後に焼かれ、貼り付けた後に絵付けがされるそうだ。ラマンダ明けのイスラム教徒にとっては、正月ともいえる3日間のレィースト(復活祭)の最終日とあって、家族連れの参拝客でごった返す中、短い合同礼拝の後ドームの周りをろそうさせて頂く。私たちの動きに合わせて、足を踏みならす子供もいる。街中で頻繁に見掛ける、全身に黒い布を被った女性の姿がここでも目立つ。この装束は、敬けんなイスラム教徒であることを示しているそうだ。壁をくり抜き、仕切って造られた休憩所で、親族家族単位で持参のお弁当を楽しそうにほおばる姿が、あちらこちらで見受けられる。道中、荷台に人を満載した軽トラックのほとんどが、この モスクに向かう参拝客であったことに気付く。

このモスクのイマーム(イスラム教には司祭は存在しないが、イスラムの教えに精通している人物が実質的にはそれに近い役割を担っている)のお話を伺う。
聖なる地へようこそと歓迎の言葉で、それは始まった。復活祭の間、連日1万人以上の人々が訪れ、世界の平和を祈っているという。ここでも国内の惨状を世界に広げて欲しいと、強く乞われた。新しい平和の模様が描かれた、スカーフをいただく。

800年ほど前に建てられたと言われる、らせんの塔に登り、古都の面影を偲びながらサマッラを後にした。

夕食を招待して頂き、「友好、平和、連帯」のナスラ女史宅に伺う。閑静な住宅地にある彼女の絵画や彫刻が飾られ、私たちの心を和ませてくれた。家庭菜園からの野菜も彩りを添え、バラエティに富む皿が並べられ、一同歓喜する。何よりも一家全員での暖かい持て成しに、胸が打たれた。話は尽きないが、「イラク人の家族が、世界中の人々との掛け橋を築けた。今日は素晴らしい一日でしたね。」という言葉でこの夕食会は締め括られた。


3月5日 Baghdad

石井佐紀子

9:00ぐらいにホテルを発って、宗教省を訪ね、Dr. Abddo-AI-Mounew Ahmed Saleh大臣のお話を伺う。

「今回の戦争は軍事面ばかりでなく、国民の生活にも深刻なダメージを与えた。国内では祈りの場である、モスク、教会、修道院が70も破壊されてしまった。国民の祈りのより所となるこうした神聖な場を、一日も早く完全に再建できるように日々努力している。どの時代をとってみても、イラクは信仰を大事にしてきた。神を信じることは、人間の行動に良い影響をもたらすので、信仰を持つ人々のよって構成される社会が、強く望まれている。
そのため、この国では宗教の信仰の自由が保障されており、例えば学校の25%でキリスト教教育が行われ、国内にとどまらず国外での教会の建設にも、多額の資金を援助する等、他宗教の保護、援助を行っている。」と、国内の宗教事情を語って下さった。
経済制裁に、他のモスリム国も参加していることをどう思われるか、という質問に対して、「その様な国々は主体性が全く欠けており、ただアメリカのためだけに動いている。この行動は、イスラムの教えに反している。しかしそれらの国ばかりでなく、米、日、英、全ての国々と新しい互いに協力し合う関係を築きたい。」と、応ぜられたのが特に印象的だった。

続いて場を移し、貿易大臣Dr.Mohadye Salehが具体的な数字を折り込みながら、イラクの経済状態を説明して下さった。

「イラクは一日に28万バレルの石油を輸出する、世界第2位の産油国だった。経済制裁開始後は、ヨルダンを経由して一日に5万バレルの輸出が認められている他は、一切の輸出が禁じられている。(支払いはUNを通して食糧で支払われているが、後述する配給体制を全く無視して独断で行われているため、地域によって物資の偏りが生じている)つまり外貨が全く入らない状態で、40億ドル相当の海外資も凍結されている。
しかし、イラクは食糧、生活必需品の80%を輸入に依存していたため、極端な物資の欠乏による超インフレが起こっている。こうした事態に対処すべく、政府は91年9月から在イラク外国人お含む全ての国民の生活維持のため、配給体制が敷かれている。政府に登録されている近所の店(全国で4万にのぼる個人店舗)でのみ使用可能な、米、食用油、砂糖、粉ミルク、石鹸等、食糧生活必需品のクーポンが各家庭に発券されている。品と配給量は、テレビを通して全国に放映される。開始当時は需要の99%を供給できていたが、長引く制裁に財政がひょう迫し、供給量は減少を続けている。5月前にも9kgの小麦の配給量(1月当り)が6kgに、米砂糖は半分に減ぜられた。この供給量では、、国民の需要の約40%しか満たすことができない。一部の高所得者を除き、低中産階級の人々は、食べるために家財を売って、残り60%の必要分を市場で買い求めようと、必死で金を工面しているが到底及ばない。
特に悲惨なのは、年間石油を売った外貨で購入していた粉ミルクの欠乏である。(年間30億ドル)国内のミルク工場も爆破され、現在需要の60%しか供給できずに、生後1年で普通食に切り替えることが強いられている。制裁解除後に支払う契約で、タイの会社から30万tの米を輸入する。93年には一度だけ認められた、このような緊急輸入の計画も、国連によって破棄が要求された。このような想像を絶する状況下で、多くの人々が栄養失調や以前は考えられなかった病で、しかも薬品がほとんど無いので治療も受けられずに、命を失っている。制裁前と比較して、死亡率は13倍に膨張してしまった。
このように、現在イラクに対して行われている経済制裁は、歴史初の徹底したもので、イラク国民は生き残ることすら非常に困難な状況である。」会見後、破壊された冷凍貯蔵倉庫、粉ミルク工場等の模型を見学し、貿易省の訪問を終了した。夜は国立オペラ座に招待され、イラクの伝統、舞踏音楽を堪能した。


3月6日 Baghdad

石井佐紀子

湾岸戦争中、唯一爆撃された民間人用シェルターのあるAmiriyaに、朝7:30位に出発し途中バスを下車して30分程行進する。住宅街に入り道の両端に子供達の歓迎を受け、アミリア・シェルターに到着した。

バグダッド市内だけで34のシェルターがあるが、そのほとんどは大きなビルの地下にあって、施設が地上に出ているのはこのシェルターだけだという。多国籍軍は、製造元であるフィンランドの会社から設計図を入手し、16日間を費やしてこのシェルター用の爆弾を製造した。大まかにこのシェルターは2層構造で、半地下の上層部は老人と女性子供様に2分され3段ベッドが並ぶ住居スペース、下層部はシャワー、トイレ、厨房等のサービスを提供するスペースとなっていた。もちろん、水、温水、電気、冷暖房が完備されていた。

戦時中、安心して眠れるようにと、近所の人々が午後4:00から翌朝8:00までここで過ごしていたという。

被害者は、老人、女性、子供を1,200名前後と推定される。実際に確認可能な死体は4,000体に過ぎず、家族全員が死亡する例が多いため、その数は確定不可能ということだ。午前9:00頃打ち込まれた爆弾は2発。1発目は、シェルターの天井を破壊するために、2発目が実質的に多くの人々を死へと導いた。2重に設けられた2所の出入口の約5tの扉は、核、化学、細菌、戦争を想定して設計されたため、非常時には外気を遮断すべく自動ロックされる仕組になっていた。1発目、着弾時に奇跡的に14名が脱出したが、その衝撃に反応して扉が閉った状態で、電源が切断されたため、火の海の中に人々は閉じ込められてしまった。爆弾時に貫かれた穴は”ジョージ・ブッシュの穴”と呼ばれている。鉄筋が飴のようにひしゃげ、鉄板もぐんにゃりと曲がり、鉄筋とコンクリートが幾層にも重なった天井は、1m以上あるかと思われる。上層部は、約4000Cの熱で、全てを”溶かした”という。天井は黒く煤け、至る所に片の固まりや、手形・引っ掻いた跡が見られる。黒く焦げた壁に、子供を抱いた母親の形が、白く残っている箇所もある。地下はボイラーが破壊されたため、際限なく熱湯があふれる地獄 となった。密閉状態のため、内部気圧が上昇し、沸点が高沸したという。白壁の下から約1.5mの高さまで茶色に変色し、乾燥して無数にひびが入っている。変色したのは人間の皮膚、熱湯の水位の跡だそうだ。上階へ通じる階段の下の狭い空間は、一段と水位が上がっている。暗闇で熱湯にもだえながら、出口を求めて人々が殺到したのだろう。この部分は一段と濃い茶色で、髪の毛のようなものが見える。
91年2月13日のその晩、近所の人々の反対を押し切って、家にいた主婦の18になる娘も”溶けて”しまったという。シェルターのほぼ中央に設けられた祭壇には、故人の写真、肖像画、生前身に付けていた装飾品がまつられ、花輪がたくさん供えられている。一家が全滅したため、写真すらない犠牲者も多い。惨事を記録した写真に写っている死体はかろうじて人間のような形をしている炭の固まりである。その後方に白い煙に包まれたシェルターが見える。放水しても内部があまりに熱いので、全く一瞬で蒸発してしまったという。何度清掃しても、凄まじい臭気が何年もたち込めていたそうだ。
G・ブッシュの穴の周りに、玄題旗とバナを掲げ、御宝前をつくり、御祈念を始める。室内は太鼓の音が響くので、皆静かに叩いていたが、次第にその音が大きくなってゆく。あまりの痛々しさに、シェルターの中に留まることができない人も少なくないようだ。11時で御祈念を中断。

隣接している”ガーデン小学校”を訪ねる。子供達に迎えられ入った玄関の壁には、イラク国旗を中心に、2本の大きな赤い花が首を傾けるように描かれている。葉に書かれているのは、シェルターで亡くなった、44名のこの学校の生徒、花びらに書かれた、4つの名前は、教師のものだそうだ。
以前は、学用品を含め教育は無料であったが、現在では机・椅子の修理もできずチョークすら買えないという。同じ教科書を5年近くも使い回っているので、擦り切れ、ページも所々抜けている。表紙を別紙で補強している子も多い。しかし学校に通えるだけ、この子供達は恵まれている。学用品が買えない家計を助けるために、学校を去る子供が後を絶たないという。子供達はにっこりと微笑むが、その顔は青白い。ほとんどが栄養失調に苦しんでいるそうだ。前日にも校内で3人が倒れ、病院に運ばれている。

子供達に見送られ、御祈念を再開し、3時から合同礼拝を行う。スーフィー教(モスリムの一派)、キリスト教、ユダヤ教からも祈りが捧げられた。その後笹森上人、ジョー・シュショー氏、神田神父が話され、生き延びた犠牲者の体験談を伺う。

奇跡的に脱出に成功した彼は、わけも分からず、人々が泣き叫ぶ中を歩き回ったという。あまりの疲労に寝入った彼は、翌朝自分が血の海に横たわっていたことに気付き、再び歩き始め、窓に写った自身の姿に愕然としたという。最終的には病院に収容されたが、写真に残っているその姿は、全身が焼けただれ、ふくれ上がっていた。

「シェルターに落とされた爆弾は米国製だったが、マイクロチップは日本製、資金は独・日から出資された。そればかりでなく、G7を中心とする。30国がイラクの加害者だった。

しかし、それより今も戦争が続いていることを、1日に300もの人々がこの経済封鎖で命を失っていることを、一人でも多くの人々に伝えて欲しい。そして私達の訪問が、イラクの経済封鎖解除を導くことを強く願っている。」という、ナスラ女史のお話で御祈念を終了した。

「友好と連体」の会長、情報省、外務省の私達をエスコートしてくれている人々を招き、夕食会が催され、互いに感謝の念と私達の役目を再確認した。


3月7日 バグダッド

内藤賢久

午前中、ユニバーシティーにある女子大学に行った。医学・化学・薬学・幼児・教育など10の学部が学べる。制裁の影響で、学生食堂や図書室といった設備が機能していない。学生数は2,918人。教授・講師は172人。1年間の学校にもらえる予算は8,000ドルのみで、これで職員の給与・本・設備メンテナンス等、すべてをまかなう。大学卒業者は都会に集中しないよう、地方へもいくようバランスがとられている。そして、特に人気の英語科は1クラス28人。この大学に入るには、日本と同じ様にテストがあり、非常に難しい。そして、4年間ここで学ぶ。外人講師はいないが、講師はみんな、海外で教育を受けた人たちが教えている。教育費は無料だが、今は交通費・食費といったコストがかかるため、25%の学生が、そういった経費が支払えず学校を離れた。教授・講師の離職率はわずか2.5%で、誇りを持って今も職についている人が多い。学生のための寮もあり、300人が生活している。学生食堂もあったが、今は閉鎖のため各自で料理している。制服はあるが、高いため今は私服。
説明後、大学を案内してもらった。まず、研究室に行ったが、何ひとつ薬品はなく、何かを研究できるといった状況ではなかった。次に、教室に行った。教室は新しく造れず、地下を利用している。壁はベニヤで仕切られ、窓はガラスがないため、ベニヤに四角い穴があいているだけで、蛍光燈は3本だけで、とても暗かった。そして、一冊の本を4人で使っていた。なぜなら、この国は紙も、高い印刷技術もコピーもない。5年前は、10イラクディナールであった一冊の本が、今は70,000イラクディナールであるからだ。
最後に図書館に行った。図書館は50〜70年代の本が置いてある。イラン・イラク戦争以来、予算が少なく本の購入が難しい。以前は各学部にあった図書館が、今はここだけにまとめられている。その本の中には、クエートの大学から来ている物もあった。
その夜、大学の講師が、この戦争がもたらした電子磁気汚染の調査を話してくれた。この電子磁気汚染のきっかけは、イラクに42日間に135,000トンものミサイルが投下されたのと、イラクがクエートに進行した時に壊された石油コンビナートの石油による汚染であった。それによって、畑・水・大気が汚染された。畑は少ない所で10%、多い所で30%汚染されている。昔は、コレラはなかったが、ここ2年でコレラが検出されている。そして、マラリアも発生している。地球に悪影響を与えていることを知ると、本当に核の恐ろしさを再び痛感した。

3月8日 イラク(バグダッド)→ヨルダン(アンマン)

内藤賢久

早朝、ホテルを出た。何事もなく国境までたどり着いた。そして、何事もなく、イラクの国境を抜けれるものだと、みんな思っていた。
しかし、荷物検査の時に、何かした仏様の像が疑いをもたれ、奥の方へ持ち去られてしまった。笹森上人をはじめ、お上人様たちの顔ががらりと変わった。一瞬の内に、検査官をお上人様たちが取り囲み、いろいろ説明していた。聞くところによると、戦時中にアメリカの兵隊達に、いろいろ盗まれたという報告があった。いわゆる、火事泥棒である。しかし、1時間の交渉の後、仏様の像は戻ってきた。しかし、最後まで、仏様の像のいたる所をべたべたと触って調べまわしていた。何はことより、仏様の像はもどった。みんな安心して、笑顔がもどった。ヨルダンの国境は、1時間も手続きに手間がかかった。そして、日が沈み、何事もなくアンマンに着いた。


3月9日 アンマン

内藤賢久

イラクとはうって変わって、物資が溢れていた。この日、一日休日を楽しんでいた。町は活気があり、者が満ちていた。やはり、何かほっとした一日であったが、イラクのことを思うと、どうも割り切れなかった。



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