地元新聞掲載記事より
2000核廃絶米国平和巡礼
7月16日アトランタ〜8月6日オークリッジからの便り
VOICE from Oak Ridge
オークリッジからの便り (VOICES from Oak Ridge)
またひとつ、平和と命の巡礼が始まっています。素晴らしき人々との巡礼の輪です。
アメリカ合衆国のテネシー州の東部にあるオークリッジからの報告です。
巡礼の輪をひろげる会
'99アトランタ〜オークリッジ
第2回米国アトランタ〜オークリッジ平和巡礼報告(7月16日〜8月6日)
平成12年8月24日
米国アトランタ道場 内海 好(上人)
南無妙法蓮華経
小子は3月末からネパール国ルンビニのお手伝いに行き、6月中句に当地にもどりました。今回も
第2回目のアトランタ〜オークリッジの平和巡礼を行いました。昨年同様七月十六目から、八月六日
までの三週間でありました。区間ごとの通し行進者は7人でしたが、地域の行進者が多く、充実した
行進となりました。やはり毎年の行事として、続けて行くことの大きな意義を知らされ励まされまし
た。
8月6日のヒロシマデーは250人が集まり、約3キロの道のりをお大鼓と玄題旗(御題目ののぼ
り)を先頭に”Y−12”の核兵器工場まで行進し、22人が非暴力直接行動し工場への不法侵入罪で捕まりました。
”Y−12”工場はヒロシマの原爆を製造したマンハッタン計画以来、核兵器を作り続けている唯一の工場で、巨大な地域を占めており、現在でも研究・開発・製造を一貫した工程を持っているところ
で、この工場の閉鎖はアメリカの核兵器の中心部を止めることになります。それだけに本当に大変困難な運動となっています。地道な、そして展望を失わない運動が必要です。私共も、その地道な運動の中にしっかりと根を張って行きたいと思っています。
11月11日から18日までの1週間、アトランタからコロンバス市にある「スクールーオブ・ア
メリカス」(アメリカ軍事学校)に向けての巡礼を行います。これも昨年同様のコースで、中甫米の軍人
たちを、この軍事学校で訓練し、その軍人たちが本国に帰り、労働組合・農民・学生・先住民などの
貧者・弱者を弾圧し、時の為政者の道具となり、米国資本の手助けとなっています。この軍事学校の
閉鎖運動は、昨年は全米から1万5千人の人々が集まり、5千人以上の人々が葬儀行列を行い、基地
内に入っていき、捕まりました。
今年も昨年同様の人々の参加がありそうで、私共も、その盛り上がりをつけるために行脚して参り
たいと思つております。 合掌
'99アトランタ〜オークリッジ
核廃絶米国平和巡礼報告(7月16日から8月6日)
平成11年8月9日
米国アトランタ道場 内海 好(上人)
南無妙法蓮華経
暑中御見舞い申し上げます。小子らも、日本国内におけるビキニ〜東京〜広島〜長崎、そして沖縄の平和行脚に触発され、今年から七月十六日、ニューメキシコ州アラムゴールドで人類史上最初の核実験が行われたこの日から、八月六日、人類に対して核兵器が「ヒロシマ」に使われた日までの三週間を、ここアトランタからオークリッジまでの平和巡礼を行いました。オークリッジはテネシー州の東部にあり、広島の原爆「リトル・ボーイ」が直接製造された町です。アメリカのこの小さな田舎町の中にY−12核兵器工場があり、アメリカの核兵器工場の中で、閉鎖・縮小されることなく、現在も唯一新型の核兵器が作り続けられています。
この核兵器工場(通常、Y−12工場といわれる)に反対運動を続けている反核環境保護グループが十年前からあり、このグループはこれまでの穏やかな署名運動や、国会議員への要請運動から、昨年以来非暴力直接抗議行動を中心とする運動体となってきました。工場正面の道路に引いてある青線を越えて行くことで不法侵入罪でつかまります。今年だけで宗教者の日、婦人軍縮の日、そして父の日と、二カ月に一回くらいの日程で、このような運動がくり返されており、当然「ヒロシマの日」はその盛り上がりがもつとも予想、期待され、私どももその盛り上がりをより勢いづけようと、この平和巡礼を発願しました。
とにかく毎年継続して行うという請願でしたので、今年はアトランタ道場からデニース法尼、市川法尼、小子の三人がずっと歩き、途中、旧縁の人々また新しい御縁の人々が地域地域で合流されました。大変むし暑い汗だくの一週間。そしてその後はアパラチア山脆のふもとで登りが主な日々で、次にスモーキー・マウンテン国立公園の中の清涼な日々となりました。何より今回の驚さは、多くの人々の温かい反応でした。手を振る人々、車の警笛を鳴らす人々となかなかにぎやかで、夏の休暇で人々が浮かれているのか、それともこの汗だくのわれわれへの声援なのか、何か新しい国民感情なのか、意外に思いました。国内に狂気の殺人事件が続発する中で、私たちの平和巡礼が輝いてみえたとも思えるのですが、何にしても大変歩きやすく、励まされました。
また、夜の集会でも毎回予想を越えて三十人、五十人と集まつてくれ、不思議な思いがしました。地区地区での行進者もだんだんとふえて、最終日の「ヒロシマの日」は金曜日でありながら、二十五人の人々が十四マイル(二十二キロ)を歩かれ、十一歳の少年も参加してくれました。
夕方六時からの核兵器工場前での集会は百五十人ほどの集会となり、八人の人々が逮捕されました。私たち六〜七人の御大鼓に対して、その捕まった人々の中から合掌して感謝の念を示していただきました。夜八時半からは、例年のごとく灯篭流しが行われました。だんだんと人々の中に、この灯篭流しも定着して来ています。小さな子供たちには、真夏の夜の美しい思い出として、御大鼓の音と共に残っていくようです。御太鼓と御題目がこれまで以上に多くの人々の心の中に入って行く姿をみせていただき、あらためて行脚の功徳を感じさせていただき、ありがたい巡礼となりました。
たくさんの人々にお世話になりました。仏様、御師匠様(日本山妙法寺藤井日連山主)の御加護、御慈悲をたまわり、何の事故もなく終えることができ深く感謝申し上げます。
二〇〇二年には、より大きな集会としたいと地元の人々は頑張っており、私たちもこの「ヒロシマ」の悪の元凶を止めるために動いてまいりたいと思っております。来年も同じ七月十六日から八月六日までの日程で行いますので、日本の方々にも参加していただければありがたいと思っております。取り急ぎご報告申し上げます。 合掌
(「天鼓」九月号より転載。)