第五回韓日平和巡礼リポート | |
準備渡韓報告 |
『第五回韓日平和巡礼』準備渡韓報告 | |
南無妙法蓮華経 | |
2月13日(日) 高橋 清光 | |
私はソウルのすぐ南にある果川市という所で友人で画家である金承林氏の画室を借りて住んでおります。承林氏はこの画室にて毎月6日・13日・25日と「お祈りの会」を主催され友人たちとともに、すでに10年ほど続けておられます。この会は国籍・宗教・信条の違いを超えて、"大いなる存在"へ世界の平和、韓半島の統一などの祈りをささげています。この「お祈りの会」に、前日来韓された牧野上人と丸山氏をお誘いしたのでした。当日は総勢11名集まり30分ほどの沈黙のお祈りのあと、みなで持ち寄った食事を分けあい昼食となつたのでした。なごやかに日本山の活動についてや平和に関する話に韓国の生活者の方々と花が咲きました。 | |
<TOP> | |
2月14日(月)くもり ソウル 丸山 裕市(信士) | |
6時起床。30分お勤めをし、小雪舞う中、街頭修行。宿を中心に一周、曹渓宗総本山曹渓寺へお詣り、さらに1時間街頭修行。 韓国留学の高橋清光さんが真寛師僧面会の件を関係者に連絡し、11時に仏教人権委員会事務所結集のはからいでした。一昨年の平和巡礼以来の趙さん、昨年ビキニデー平和巡礼以来の道観師僧、みな元気な再会に笑顔のごあいさつ。高橋さんとほどなく朴正基先生も来訪。そろって出発。最寄の地下鉄駅出口で昨年の八月の広島集会で通訳してくださった池さんが車で出迎えてくれ刑務所へ。 面会は三人3分との定め、朴先生知り合いの方がおり、交渉して五人10分にと延長してくれる。暖房のない独房とのこと、目のまわりが少し青くなっているものの、面会人より身ごなし軽やかに元気で張りのある声の真寛師僧。時を惜しむかのように矢つぎ早にいろいろな事柄を伝えようとしますから、池さんの通訳も大変。10分間またたく間でした。「刑期がまだ六カ月残っているから済州島巡礼には参加できないが、道観師僧に済州島の仏教寺院の師僧などを紹介してある。もし私を支援してくれるなら済州島巡礼を実行し新聞に載せて伝えてほしい」。「宝土をいただいてあるからそこに日本山妙法寺に御仏舎利塔建立をしてほしい。法華経薬王菩薩に毎日祈念している」などと話された。真寛師僧の気勢迫力に圧倒され、お見舞いが逆に励まされたのでした。 高橋さんの案内で刑務所より車で十分ほど行き、長期囚(思想囚)だった方々の共同生活アパートをたずねました。人への親和感が自然にあふれ、すがすがしく迎えてくださいましたホンさん。三十六年間獄中生活。1993年出獄。81歳とのこと。「妻、娘一人、息子二人を平城に残したまま、どうしているかわかりません」。「獄中、どこで死んでも同じと、あせらないで娑婆世界のことはあきらめましたよ。仏教でいう解脱なんでしょうか。支えになったのは良心で、良心が神でしょうか」。言葉をさがし、あっけらかんに語る姿に一層の重みを感じました。 昨年36年間の獄中生活より釈放されたアンさんから、身の上話をうかがいました。「釜山が故郷で、貧しくて一日二食の生活でした。北へ行けば奨学金で大学へ行け、貧しいみんなに住宅を提供してやれるという社会主義政策にあこがれ、平城工科大学で五年勉学、人民軍の建設総局組織部長になりました。分裂した祖国統一を願って、ひそかに南に入って統一達成の任務でした。南北分断線で軍隊に遭遇、5メートルの近距離で銃撃され失神し捕まりました。銃が近距離だったために指、右下腹を貫通して、かえって命拾いしました」「獄中、このままだと犬死と思い転向したけど、良心に問うてまた再転向しました」「劣悪な入獄生活で釘をすってハリにし、同胞にハリ治療してました。うわさを聞いて看守にもハリ治療して、かわりにハリを持ってこさせてました」「出所の餞別に友人が壁から釘をぬいて、両手血だらけになって、12時間かけてハリを贈ってくれました」「妻、娘2人平壌で別れたままです。保安観察法でどこへ行くのも禁じられてるけど、まつたく無視してどこへでも出かけます。いまハリ治療を奉仕でしています。仕事がきれてちょっと困ってます」とたんたんと物語りますが、行者のようでも、お医者さんのようでもあり、若々しく、とても71歳とは思えませんでした。日本語も上手でした。いつまでも見送ってくださる姿に、情愛がにじみお名ごりおしみ、探々と合掌するばかりでした。 夜、新仏教人権委員会事務所で通訳の高橋さんをまじえて、一気に済州島平和巡礼の草案作成の打ち合わせとなりました。 |
|
1、済州四・三抗戦犠牲者慰霊祈念韓日宗教者平和巡礼。
1、1945年、36年間の日本の植民地支配より解放された直後、済州島を自治区にしようとする動きがあり、米軍の加入により島民の三分の二が虐殺された。 済州島はイデオロギーのために二重三重の苦しみを受けた。四・三事件は韓国独特の事件である。 1、4月2日から5日間の予定。 |
|
何もかもがすでに用意されていたかのような不思議な一日の出会いでした。 | |
<TOP> | |
2月15日(火)晴 丸山 裕市 | |
日本軍「慰安婦」ハルモニたちの共同生活の場、「ナヌム」(分かち合い)の家庭訪問のため、ソウル市外、河辺バスターミナルで高橋さんと待ち合わせる。バスで40分ほど広州へ。そこよりタクシーで「ナヌム」の家へ。腰下が大地に根づいて、これから出て来ようかと感じる裸のハルモニの彫刻が出迎えてくれる。慧真師僧中国訪問中で不在。そこにたびたび出入りし、お手伝いをしていたという高橋さん。ず−っとそこの一員でいるような感じで、お手伝いの方々、ハルモニたちを次々と紹介してくれる。 高橋さんの案内で、日本軍「慰安婦」歴史館へ。1991年韓国内で初めて「慰安婦」を名乗り証言した金学順ハルモニの大きく引きのばされたパネルに、「私たちが強要に勝てずにしてしまった」「歴史に残しておかなければならない」と書かれた言葉に迎えられる。1階2階ゆっくり見て3時間ほど要する展示場に、数々の資料、写真、慰安所の原寸大の模型、ハルモニたちの美しい顔の版画絵、ハルモニたちの作品、絵画などがあります。特に故姜徳景ハルモニ作で、目かくしされ、大木にバラ線でしばられ、まさにピストルで撃たれようとしているチョビひげの軍人の絵『責任者を処罰せよ!平和のために』に圧倒され言葉を失う。 |
|
<TOP> | |
2月16日(水)晴 丸山 裕市 | |
浅川巧さんのお墓参りのためソウル市郊外涼里で高橋さんと待ち合わせる。浅川巧さんは山梨県八ヶ岳南麓高根町に生まれ、かつて韓国が日本の植民地だったころ教師をしていた兄伯教氏(朝鮮陶磁器の神様)のあとを追い、23歳で渡韓、朝鮮総督府林業試験場農林技師となる。はげ山の緑化に数々の業績を残し、貧しい朝鮮の子供たちに奨学金を与えて勉強させたり、民芸運動の祖である柳宗悦と朝鮮民族美術館を設立した。 「朝鮮在来の手法をやめて、ただちに日本式の手法を採用することは改良でなく破壊である」と日本の政策を批判、朝鮮の人と文化をこよなく愛した人でした。肺炎で四十歳の若さで亡くなる。清涼里郊外、忘憂里共同墓地公園の山の南斜面、漢江が見わたせる所にあります。韓漢碑文に「韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に生きた日本人、ここで韓国の土となる」と。献花、焼香し御祈念しました。 |
|
<TOP> | |
2月17日(木) 丸山 裕市 | |
釜山へ。林兌鐘先生をお訪ねする。84歳で老いても、ますます東アジア情勢を熱っぽく語られ拝聴する。 | |
2月18日(金)晴 丸山 裕市 | |
この一週間、ず−っと6時起床30分お勤め、1時間ほど曹渓寺参詣の街頭修行をしている。寒さにも少し慣れたとはいえ、指が痛み感覚を失うほどだ。宿にもどると朴正基先生が待っておられた。朝食を御供奉してくださりタクシーでお見送りしてくださる。平和のための活動をされている方々の熱い思いをいただいての一週間でした。 | |
合掌 | |
<TOP> | |
第五回韓日平和巡礼(4月2日より5日間の予定で、済州鳥で実施) | |
日本山妙法寺 青梅道場 牧野貞亮(上人) 電話 0428(74)4737 | |
丸山裕市(信士) 電話 0468(52)3071 | |
追 記 | |
草席にて 真 寛 | |
山深いとこに 行きつくと 山がさきに笑う
もう春が来たと 野原のあたまに花が咲く 美しいという言葉 伝えるとこはどこか 風も休んでいくのに… |
|
(1999年2月 東京都青梅道場にて) | |
真寛師僧はまだ過酷な獄中生活を強いられています。師僧の即時釈放を求める日本国内署名は1600名を超えています。 都合六回に分けて金大中大統領宛に送付しています。みなさまの心からのご支援に深く感謝申し上げます。 合掌 |
|
日本山妙法寺渋谷道場 | |
<TOP> | |
(「天鼓」2000年3月号より一部転載。) | |