ネパール平和巡礼
- 2001年10月8日より10月31日まで ー

ネパール平和巡礼
牧野 貞亮
2001年11月5日
於ネパール国カトマンズ市
南無妙法蓮華経
ヒマラヤ連峰八千メ−トル級の山々から流れ落ちる霊水は、ネパール全土を網の目のように流れ落ち、やがて平原に下ってインドに入りゆったりとした大河となって大海に流れ入る。
ネパールは山の国だ。10月8日古都パタン市を出発した巡礼は、23日間をかけて、釈尊誕生の地インドとの国境に接する村ルンビニに到着した。
パタン市は、かつてのネパールの古都でありしかも仏教が隆盛した都だけあって、各所に仏塔、寺院の遺蹟が在り奈良の都の風格がある。

嵐毘尼(ルンビニ)佛舎利搭落慶を讃嘆した、今回の平和巡礼は、アジア(日本、ネパール、スリランカ)の仏教僧、僧尼(16名)と、この行進の主旨に賛同して各国(日本、ネパiル、アメリカ、スイス、オーストラリア)から参加した人々(16名)によって歩かれた1日の行程はほぼ20キロ前後。最も長い所の時で31キロ。宿泊所は寺院、学校、公共施設の広間を借りて男女に別れて土間に敷物を敷き、各自持参した寝袋、カヤ等を使って、一日の疲れをいやした。
パタンでは、出発式の盛大な式典があり千名以上の人々が行列を作って・古都を練供養した。翌日、1日の行程で首都カトマンズに入った時には、市中をゆるがす程の数千人の人々が参集し、楽器、鳴り物、旗を立てて市中を練り歩いた。
パタン、カトマンズでの、この仏教徒の燃える姿を目の当たりにして、ルンビニ佛舎利搭落慶に対する、又、この平和巡礼に対するネパール仏教徒の尋常ならぬ歓喜を感じた。
冬の装いでカトマンズに入ったが、千メ−トル台の高地に在るカトマンズ市でさえ日本の気侯の9月中旬頃の陽気であった。日中の行脚ではすぐに汗とホコリにまみれた。カトマンズの周辺ではさすがに河川は汚れ、水浴、洗濯にも水に不自由したが、カトマンズを離れるにしたがって、河川は本来の清流を取りもどし、1日の巡礼の後で河に行って水浴、洗濯、水遊びまでできるようになった。巡礼は山々の合い間をぬって自動車道(国道)を歩いた。オンボロトラック、バスから吐き出される排気ガスには巡礼者は最後まで苦しめられた。1人々々に途中から、マスクが配られたほどだ。世界の景勝地ネパールの自然の中を歩き乍ら、排気ガスに苦しめられるとは何たる矛盾か!
1日の行程は4時起床、5時各宗のお勤め、45分、6時にお茶(紅茶)だけ頂いて出発。5〜6キロ歩いた所で朝食。更に8キロほど歩いて11時昼食。午後はやはり8キロほど歩いて到着地に着くという日が多かった。けれども、日を追うごとに、各地での歓迎が増えその日その日によって随分と1日の行程に変化が生じた。街道の途中々々で出迎えの人々が沢山の花をもって行進を出迎えてくれた。その供養が終わるとその人達も又、巡礼者の前に加わって、4キロも5キロも共に歩いてくれた。殊に、ネパールのラマ(チベット)仏教徒の出迎えが多かったように思う。婦人はみな民族衣装を着て正装だ。花々の供養といい婦人達の民族衣装と言い、1992年に歩いたセントラルアメリカ(中米)の行進を彷彿とさせる。遠くの山奥から大型バス一台を仕立てて70人以上の人がバスの屋根にも乗ってこの行進を歓迎するのにわざわざ街道まで出向いて来てくれたのにはさすがに感激した。こんなことが二回もあった。なんと言う信仰篤き人々だろう!
巡礼中頃で、観光地ポカラに到着した。二年前落慶したポカラ佛舎利搭には2日問滞在し、1日はたった1回の休養日がここだった。巡礼中、天気は午前10時頃まではたいてい曇り空で後晴れれたが、この休養の1日は朝から全くの快晴で佛舎利搭の眼前に朝陽に燃ゆるヒマラヤ連峰の山々がそびえ立った。巡礼者一同ただただその霊光に感嘆の声を上げざるを得なかった。なんとも不思議な今朝の天の御気色であった。
諸天が歓喜し、巡礼者が歓喜し卸師匠様がこの巡礼を讃嘆された姿であったろうか。
翌朝佛舎利搭の裏の山の尾根伝いに巡礼は歩かれた。半日も歩き続けただろうか。交通の便利さから駈ざされた山村の自然と村のたたずまいは悠然として豊饒であった。便利を追求した現代文明はやがて人間の精神までむしばみ、便利から隔絶したこの村の人々は、逆に自然と融けこみ、心も又、豊饒ではなかったか。
けれどもネパールの多くの人々の暮らしは貧しい。「貧乏人の子沢山」と言われた時代がかつて日本にもあったが沿道で行き交う粗末な家々からは大抵4、5人の子供達がぞろぞろと出てくる。最も貧しげな子供達ほどやせて表情に活気がないように見える。十分な栄養が行き届かないのではないか?日々食べることにも事欠くのではないか?たとえ子供が病んだとて医者に見せる余裕と財力も無いことだろう。物質的に恵まれ過ぎた日本の子供達が精神的に病み、一日の食物すら十分に満ち足りぬ世界の子供達の肉体が病んでいる。物に足りて心が病み、物に欠けて肉体が。病む。いったいどうしたらいいのだ!?
ネパールの人々の喜怒哀楽とはよそに山々の渓谷から走り流れる谷河の水は速くただただ無心に流れ下る。その美しさに心うばわれるほどに、またまたネパールの人々の暮らしぶりの貧しさに同情せざるを得ない。
巡礼者32人の中、半数がアジア仏教徒の僧侶、尼僧(日本山僧4名、尼僧3名(米国籍1名)、ネパール僧4名、尼僧1名、スリランカ僧2名、日蓮宗僧1名)だということがどんなにかこの巡礼の人々を和合させる力となったことだろう。早朝五時からのお勤めは、日本山20分、ラマ僧5分、テラハダ(小乗教)僧10分、在家仏教者10分ほどの配分で祈られたが宗教の対立が戦争にまで発展する過去の歴史を思うと宗教の融和敬愛こそが最も大きな人類に課せられたテーマではないだろうか?そしてこの問題はどんなにか困難を伴うことだろう。
ポカラからやがてタンセンという昔の王国があり仏教が栄えたといわれる町に着いた。ここはかつて30年前恩師上人様がポカラ佛舎利搭を破壌されたのを期にここに巡錫を転じられ1ケ月滞在された。
滞在された道場の御宝前には今だに御師匠様の写真とルンビニで殉教した生天目御上人の遺影が祀られていた。30年前御師匠様に出会って共に御題目を唱えて御修業した婦人達が今も健在で御師匠様をお迎えするように私達の巡礼を歓喜して迎えてくれた。聖者の足蹟がいかに崇高で強烈であったかに思い至り胸がつまった。
タンセンからブトワール、バイラワの平原に下ってくると気温は一気に上り同じ距離を歩いても疲労度が倍増した。出迎えの人々は更に数を増し、殊にルンビニに入るバイラワの町では延々と練供養の列がつながった。空中には巡礼者を歓迎するかのようにルンビニ園に群棲する白鶴が空を舞った。
最終日(10月31日)ルンビニ園への街道行脚では途中から日本山妙法寺の一門20名余りが出迎え、佛舎利搭への20キロ近くの道のりを撃鼓宣令し最後の行進を荘厳して下さった。夕方四時半過ぎルンビニ佛舎利搭に到着したが、春霞のような白雲を背に、白亜の大佛舎利搭は建立されたというより、大地より湧晋たというにふさわしい威厳と幽玄の美に溢れ圧倒された。
23日間の巡礼を振り返ると巡礼者はみなよく歩き、よく食べ、よく眼り、よく和合した。一人の落伍者も出なかった。この力は一体何処から出たものか?諸天に護られ、ネパール仏教徒の厚き信仰に支えられ、恩師上人様の誓願力に動かされたからではなかったか。
こんな一日があった。
カトマンズ市中巡礼中、王宮前にさしかかった時交通煩雑な中にもかかわらず、この巡礼行進を最も理解し讃嘆し外護された、スダルサン上人が巡礼者を王宮前に横一列に並ばせ撃鼓宣令せしめた。突然のことに最初どういうことかわからなかったが二・三分撃鼓唱題する中に王室に対する諌暁の鼓であることに理解された。スダルサン上人はかつて卸師匠様に深く帰依された方で30年前恩師が王室より賓出された時に恩師と共に法難を忍ばれた反骨の大法師であった。この王宮前にさしかかった時当時の思いが一気に胸に迫ったのであ
ろう。その面貌はどこにでもいるおじさんの顔であるが不思議な優しさと人の心魂を見抜く眼光をそなえた方であった。
ネパール国にしてこの立正安国の大法師在り!
人類は、20世紀を戦争の世紀と振り返って21世紀を恒久平和への世紀と希望をつないだ筈であったが、否々、世界は21世紀も開門と同時に更に更に無明の闇を深めつつある。人類の罪業はどこまで深き闇を背負っているのだろう?けれども絶望と深き嘆きに沈んでばかり居るわけにはいかない。
仏陀世尊の「唯我一人、能為救護」(我一人のみ能く救護をなす)の真文を実現せんが為に南無妙法蓮華経の祈りに更に々々徹底せねばならぬことであろう。
合掌
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