Vol. 2 アウシュビッツからの便り
VOICES from Auschwitz


目次

はじめに

オシフィエンチム市長歓迎の辞

地球の平和 PEACE ON EARTH

アウシュビッツでの開会式に寄せて

平和のための行動、和解委員会(ドイツ)

アウシュビッツ 1995ジョージ シュシャート

巡礼日記

アウシュビッツ・ビルケナウでの12月1日〜7日のろう八接心の御断食

アウシュビッツ、ビルケナウを訪れて

12月23日チェコのポポレリスからミクロフまで30キロ歩く

12月24日ミクロフからオーストリアのポイスドルフまで20キロ歩く

12月25日クリスマスにつき休息日ポイスドリフにて

行進に日本語がわかるチェコ人が飛び入り



アウシュビッツからの便り (VOICES from Auschwitz )


去る12月1日に、アウシュビッツでの断食と祈りによって始まった「諸宗教合同・平和と生命への巡礼1995」は、厳寒の東ヨーロッパを歩き、今、ようやくイスラエルに入りました。

今号は、アウシュビッツからの便りと題して、アウシュビッツに捧げられた様々な祈りや思いを集めました。想像を絶する民族虐殺が行われた当地で、多くの巡礼者や祈りに集まった人々が感じたものは”生命”、つまり、今、地球が大変な状況にありますが、地球の平和を思い、祈る人々がつながるほんの一助として、この小さなニューズレターが読まれる事を願ってやみません。

巡礼の輪をひろげる会



オシフィエンチム市長歓迎の辞


私は、生命と平和への巡礼の皆様を、お迎えできる事を心から喜び、皆様と共に第二次世界大戦終結50周年を紀念したいと思います。

オシフィエンチム市と市民は、巡礼がここより出発なさる事を誇りに思い、そして第二次世界大戦の残虐性のしるしが残っているアウシュビッツからの平和の訴えを、最初に残虐な原爆による被害をこうむられた広島までたずさえて行って下さい。

近代文明は屡、人間の苦しみを造りだし、世界各地で多くの人々が不合理に死んでいっております。平和巡礼は、今再び、新しい戦争がおこっている国々を通ります。そこでは軍隊と兵器による残虐な行為により、人々が、多くの家族が、そして国々そのものが悲劇にみまわれており、そこにいる無力な子供達、女性達、老人達の事を、私たちは決して忘れてはなりません。戦争と戦争によってひきおこされる飢餓が、世界でもっとも悪質な疫病です。

私とオシフィエンチム市議会の名において、人類への侮辱である戦争に反対の声をあげ、また同時に、人々と国々の平和と自由への理念を世界に広めるこの巡礼に、心より感謝の気持ちを表明いたします。過去と現在の象徴であるアウシュビッツは、常に世界平和への行動に参加していくでしょう。

オシフィエンチム市長

12月18日
オシフィエンチム市庁舎広場にて









地球の平和 PEACE ON EARTH

「あなたがたは、世界を巡り、平和をほめたたえ、すべての戦争で犠牲になった人々に祈りを捧げて来られました。スコッツオブというこの小さな町に生きる私たちは、あなたがたを尊敬します。また、私たちは、人間性が真の復活を遂げることを欲します。

地球には、飢えや戦争があってほしくないのです。私たちは、あなたがたと共に歩いて行き、祈ることはできませんが、心はいつもあなたがたと共にあります。あなたがたが、強さと忍耐をもたれますように。そして、全世界があなたがたの声を聞きますように。

スコッツオブ市長と
ここに生きるもの達より


アウシュビッツでの開会式に寄せて

バビロンの河のほとりにすわって、
そう、泣いた私達がシオンを思い出した時
私達はヤナギの木に琴を掛け
そこで私達を捕えた者達が
私達を無駄に捨てた者達が
陽気に振る舞えと命じた
「シオンの歌を歌って聞かせろ」と言って

異郷の地で我主の御歌を歌うことなどできようか?

あなたを忘れてしまうなら、ああエレサレムよ
私の右手を委えさせよ
私の舌を口の奥に詰めさせよ
あなたを思い出さないのならば

(賛美歌137)

私達のひとりひとりが、自分のエレサレムを見つけようと願っている私達は皆、異郷の地をさすらう者なのだ。

家に帰るにはどうしたらいいのだろう?

世界を我が家であると見るための鍵は思いやりである。

世界に対する思いやり、大地への、水への海への、そして空気への、豊かな生命の源への思いやり。

お互いへの、仲間としての人間への
人種や民族にわずらわされない思いやり世界の子供達、やがて世界を信じて抱きはじめる者達への思いやり

私達の先を生きた者達から、世界を信頼して抱くために受け継いだように
世界は搾取するためにもらったのではないいつも我が家として大切にするため


ジョージ・ウォルト博士


平和のための行動、和解委員会(ドイツ)

Action Reconciliation Services for Peace

私たちドイツ人は、第2次世界大戦を始めたゆえに、人類に与えられた苦しみに対する責任は、他の誰よりもあるといわねばなりません。神に対する罪多き反逆者としてドイツは何百万というユダヤ人を殺しました。生き残った私たちは、こうなって欲しくなかったと思う反面、虐殺を阻止する事も出来なかったのです。

このような事実が平和を遠ざけているのです。それは、あまりにも少しの和解しかないからでありましょう。

しかし、政治に対し、自覚的な決断をしていく私たちの義務とは別に、自己正当化、苦渋や強い憎しみに抗していく事はできます。若し私たちが本当に許すのであれば、逆に許しを乞い、その信条を基に生きていく事ができるのです。


アウシュビッツ 1995

ジョージ シュシャート (John Schuchardt, USA )

アウシュビッツは私たちの時代の現実の原理となった。つまり、官僚組織を上手に理屈ずけて使い。何百人も殺すような意志決定をする社会と統治組織を作り上げてく事のできるのだと示してくれたのである。その様な官僚組織の中では、意志決定を下す人間達は、その行為がもたらす結果から、物理的にも道徳的にも遠く離れてしまっているのである。私たちの時代には、人々を卑しめ、非人間化し、その後で恥ずかしげもなく、多数の同意さえ得ずに人々を投捨てるような事が、いかにして可能であるかが示されたのである。

核武装による国家保安の保持が公然の秘密である私たちの社会は、検閲やメディアの超高度操作で、死の如くの生者の世界を創り上げた。多くの者は感覚が麻痺し、感情は死んで中毒し、否定の中に凍りついた、家庭、学校、地域にあっては、多くの者はうまく機能していないのである。イデオロギーや実利的方便が、モラルや宗教の教えの上に台頭しつずける限り、アフリカや、ロシヤや、ユーゴスラビア、チェルノブイリ、ロサンゼルス、ロンドンで見られたような社会崩壊浄化作用は続いていくであろう。

ナチスとホロコースとの普遍的な傾向は、私たちが、「発展」という名のマントに身をつつみ、「西洋文明」という名の冠で飾る、その膨れあがったプライドの空しさを、はっきりと露呈してると私たちは謙虚に思いたい。

約半世紀に渡り、私たちは完全な自己否定、自己矛盾の血に生き、更に何百万人という無垢でか弱く美しい人々を苦しめてきた。そして、今、完全なる自己破壊をもってそのつけを制すのである。しかし、私たちはここに集まり、殉教者たちの血潮に感動している。我らが信仰のうちにあらんことを。



巡礼日記 (Pilgrim' Diary )

アウシュビッツという歴史的な虐殺地に行って、これほどいいエネルギーを頂いて、前よりも元気になって帰らせて頂くとは思いませんでした。この地は非常な殺戮が行なわれた深い重い悲しみがこもる場所ですが、同時に、強い平和への祈りが埋め込められている場所でもあります。ユダヤ人虐殺から半世紀の間に、一体何人の人が贖罪と平和の祈りを持ってここを訪れたことでしょう。人々の祈りと明るい平和の気とでも言うようなエネルギーが、あたかも虐殺の暗い悲しい経験とバランスを取るように現れているのです。本当に不思議な、しかし、私にとっては何故かなつかしい場所でありました。多くの犠牲になったいのちと、生かされている自分とが深い深いところでつながっているような気がして、本当にいのちは一つなのだなあ、と実感いたしました。アウシュビッツで大変善い時を頂けました事を感謝しております。

シスター 佐藤 裕子
長野県高森草庵



アウシュビッツ・ビルケナウでの12月1日〜7日のろう八接心の御断食

12月1日からの御断食に参加する人の多くは、オーストリア、ウィーンより列車にて
ポーランドのオシフィエンチム(アウシュビッツ)に入った。

ここで御断食する前にアウシュビッツの収容所でおきた歴史的背景を理解する為に博物館を訪れた。そこには私の想像をはるかにこえたすざましく残酷な現実があった。

1939年当初はユダヤ人というよりポーランド人(政治犯)虐殺の場として計画された。1942年に欧州最大のユダヤ人絶滅センターとしての歴史が始まった。ほとんどの人々はファイルに登録されることなく到着してただちにガス室に送られた。存在する不完全な資料から約150万人が殺害されたことがわかった。

ポーランド全域のユダヤ人、スロバキア、フランス、ベルギー、オランダのユダヤ人、ソ連軍の捕虜、ドイツ、北ポーランド、リトアニア、ノルウェー、ハンガリー、ギリシャなどの他占領地区全域からのユダヤ人、それに平行してジプシーの人々も殺された。ここに送られた人々の殆どは東ヨーロッパに移住させられるだけと信じていた。ギリシャ、ハンガリーのユダヤ人達はナチスから存在しない農場、土地、商店を購入したすべての財産をもって移動してきた人々はここで何から何まで没収された。多くの人々はすぐにガス室に送られてなくなったが、その他の人々は重労働、飢え、医学上の生体実験、逃亡をこころみた人々のみせしめとしての拷問及び処刑場での首吊り、射殺等の手段で殺された。

展示室にはガス室で送られたあとで刈り取った7t以上の髪の毛が展示してあり、髪の毛の多くは織って軍隊の洋服として利用されて。また、灰は肥料として使われた。ここではまたガス室に送られなかった囚人の生活の様子が展示してあり、1日12時間の重労働でコーヒー色の水一杯、半斤のパンと一杯のスープが一日の食事で3ヶ月以内にこれらの囚人が飢えでなくなった。

囚人の人々に、シャワーに入れると言ってガス室に送り込んだ。私もこのガス室に入った時、拷問を受けたという部屋の前に立った時、「労働をすれば自由になる」というスローガンを書いた収容所の門を抜けた時、ここでなくなった人々の苦しみと悲しみの重さがこちらの心に伝わり、博物館を訪れた後の一日は、その重さに圧倒されてベットに寝込んでしまった。

次の日からの御断食はビルケナウというアウシュビッツ2号収容所となった所で始まった。ここは第1号収容所の7倍の規模のものである。

覚悟していた極寒の寒さも始めの日雪が多少降って霜が一日凍っているぐらいの寒さで昼時は多少霧の中から日がもれて暖かく、12月5日、6日とお断食の後半は昼過ぎより雨が降り寒さによる苦労は何もなかった。

約25から35人の人々が常時お断食に参加し7日間この地に、1日中絶えることなく太鼓の音を聞かせて祈る事ができた。

お断食の最後の日、御宝前に向かって三敬礼をした時、雨の止んだ雲の間から美しい大きな夕日があらわれて私達の目の前で大地に落ちていった。

このポーランドの冬は天気も悪く、暗い空の続く中でこの美しい夕日の出現は私達の行進にとってこれからの未来に素晴らしい啓示をしているように思えた。

お断食の最後、お祈りを終わった後で、笹森御上人が、「この地でなくなった人々の霊が随喜されて、この行進を助ける為に広島へ導いてくれるでしょう。天の景色がそのことを示していたと信じられます。」と言われました。

安田 行純 法尼


アウシュビッツ、ビルケナウを訪れて

線路をたどるように門をくぐると、まずその広さに圧倒され茫然とする。ここには300棟以上のバラックがあったが、現在は45棟のれんが造り、22棟の木造囚人棟が残っていて、焼かれたり破壊されたバラック跡には、れんがの煙突だけがズラリと異様な姿で残っている。

1941年にここアウシュビッツUの建設作業が始まり、44年には男女合わせて10万人もの囚人がいたそうだ。しかもここには水がなく、ネズミの大発生や、湿地の上に直に建てられたりしているため、床のない地面が土泥化したり、極めて衛生的に劣悪な条件下にあったということだ。れんが造りのバラックには女性囚人が収容されていて、3段ベットの1段に約8人が寝、しかもワラは腐っていたという。

鉄道の引き込み線に沿って、道路がずっーと奥まで続いている。端から端など、到底見渡せない広さ。正面から奥正面の国際記念碑広場まで続くその真っすぐさが、死の道への一直線に思えて、恐ろしさが倍増する。

ちょうど真ん中あたりの積み降ろし場で、運ばれて来た囚人達は、たやすく選別され、労働に適さない者はガス室送り。

ナチスは、ここビルケナウにはほとんどの虐殺設備を設置した。4棟の焼却炉、ガス室、野外焼却場・・・、これらの文字を書き込むだけでも、苦痛で人格が変わってしまいそうだ。1943年の記録によると、1日だけで4,416人の死体を、4つの焼却炉で焼却できたという。それでも焼ききれず、さらに膨大する死体の焼却は、野外の薪の山で行われたというから、想像のキャパなどとっくに越えている。灰や遺骨は、敷地内の池に投げ込まれたという。

鉄道引き込線の一番奥には、犯罪の跡を消すために撤退するドイツ軍に爆破された、2棟のガス室、焼却炉が、半壊状態のガレキとして形をとどめている。

私たちの線路脇に座り込んで、祈りのタバコタイを作り、すき間からうめき声が今にも聞こえそうな、この2棟のガレキに捧げさせてもらった。

ガレキも記念碑も、ここにあるすべてが異様にどす黒い。それはまるで、墨汁を牛乳で溶いて空からまぶしたかのよう。なにもかもが黒くて、その色彩がスモッグのどんよりした空気に加え、さらに心を重くさせ、落とし込める。

異様なばかりの広さ、そこで行われたおびただしい殺戮の量が被いかぶさってくる。今でこそ目には見えないが、子供から老人までの積み上げられた死体の山が、確かにそこにあるかのように・・・、いや、あるのだろう。

私は確かに、アウシュビッツを訪れた。訪れたというリアリティは、もちろん充分にある。がしかし、どれほどの事実の証拠を見せつけられても、なおもアウシュビッツそのもののリアリティは、ないに等しい。話しよりは写真、それより実物の物や現場、それらの段階を経るに従って、当然現実味は増していくが、それでも誠のリアリティにははるかに遠いものなのだろう。

私は、今回のツアーの直前、ある事務局を請け負っていた。この仕事は喜びと感動の連続だったけれど、初めての仕事に取り組んだ私の体は、やはり緊張していたのだろうか、ほとんど狂ったことのない生理が大幅に遅れていた。女の体とは誠にデリケートに反応する。結果的に1カ月遅れのそれは、オシフィエンチム滞在の後半にやってきた。遅れた生理はいつもよりしんどいものだ。冷えも加わり、腹痛と腹痛でコンディションは最悪。自分の日頃の行いの悪さかなと、半ば自嘲気味で腰と足を引きずりながら、引き込線のレールの上を歩く。当時の女性達は生理の時、どんなケアーをされていたのだろう?とボヤーと考える。

私という女にとって、実に身近なこの問いは、愚問の類かもしれない。役立たない妊婦と赤ちゃんから、ガス室に送り込まれたこのようなこの地では。生理の女性のケアーなど、論外だったろうに・・・。そう思うと痛くない所まで痛みだしてくるが、きっと神様が、ここで彼女達のことを思い近づきなさい!と与えてくれたチャンスなのだろう。

そう、私は強制連行されて、ここに来たのじゃない。自らの意志で、自らの平和のボケをストップさせるために来たのだろうから。そう思い始めたら、痛みに感謝の気持ちさえ湧いてくる。体の芯からの体感は、次第に絶望を解き、光の方向へと導いてくれる。「私の歩いているこの道は、『死への行進』じゃない。『希望への行進』なのだ」と。

この最大の絶滅収容所全体が見渡せる、ビルケナウ正面の塔に立ってつくづく思う。この場所を、世界の歴史遺産として永久に保存する勇気を、最大に称えたい。これがもし日本なら、まず遺らないだろう。すべてをとっぱらって、せいぜいコンクリートの記念碑が建つ程度だろうなと、奇妙な自信に満ちてしまう。この「遺る方なさ」が、我が祖国であろうはずの国に、向ける眼差しとは・・・。

もう、ええ加減に茶番から卒業して、成熟した人間社会に移行しなければ。そのためにも50周年は、二度と再びない、学びのチャンスだと思う。

1985年5月8日、当時のドイツ大統領リヒャルト・フォン・ワイツゼッカーの、ドイツ敗戦40周年の演説を、収容所の塔に立って思い浮かべる。

「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目になる。あたう限り真実を直視しよう。」

世界中に、浄化されなければならない場所が数々あるのだろう。その中でも、最も浄化されてしかるべき土地の一つが、ここオシフィエンチム。しかし、そう簡単には浄化され、癒される場ではない。人間が執り行ってきた、おごり、たかぶる行為の象徴的なこの土地、癒しきれないほどの、この磁場、祈りのほかに、何があるのだろう。

「半端なら行くな!はじき飛ばされちまうぞ。お坊さんたちと共に、強い祈りを持って行け。」と、ふがいない私を諭してくれたランナーの言葉を、この場に来てこそ納得する。同時に、最も浄化されてしかるべきは、今生きている私たち一人ひとりの心なのだ、と当然だが気がついていく。

95年のヒロシマに向けて、またそのことに象徴される根源を同じくする一連の数々の歴史の真実、次ぎなる道への始まりに、あまりにふさわしい場が、ここオシフィエンチム。深く激しい苦悶の場ゆえに祈りが集まり、そしてここから始まったのだろう。その場に立ち会い、同行させてもらったことが、誠にありがたい。

堀起由美子


12月23日 チェコのポポレリスからミクロフまで30キロ歩く

冷たい突き刺すような風が一日中、特に大きな湖に沿って歩いた時に、強く吹く。

玄題旗を抱える男性が満身の力を込めて旗をまっすぐに立てようとがんばるのを見る。

ポポレリスからの途中、カソリックの神父様が、道ばたの十字架の墓標まで一緒に歩いてくださいました。そこは、ポツダム条約の施行により、890人のドイツ人(主に老人と子供)が、チェコから「死の行進」にさらされて亡くなった場所でもあります。

この強行軍でドイツ人が苦しんだ情況は、戦争終結直前のアウシュビッツ収容所の恐ろしき「死の行進」に少し似ています。チェコにいたドイツの血を引く人々が「死の行進」であのような苦しみと困窮を味わったことについて、地元のカソリックの神父様と人々は心からの痛みを表明されました。

小子らは、一歩、一歩、歩かせていただきながら、第二次世界大戦と全ての戦いの犯罪と非人道的行いに対し、一層の贖罪があがなわれんことを祈ります。

ミクロフは、非常に美しい古い町で、お城と中世の城郭があります。小子らは地元の中学校に泊まり、夜は400年近い歴史を持つ教会で素敵なオルガン演奏に招かれました。その教会には神殿があり、中には「黒いマリア」の像が納められているのです。

ヨーロッパでは、たくさんの地で「黒いマリア」が見られ、特別な守護力と慈悲を持つとして信仰されています。現代のヨーロッパでは、このようなものに対して特別な説明は施されない事がほとんどですが、「黒いマリア」はキリスト教以前の太古の文化のもので、キリスト教と融合したものであると信じる人もいるようです。ジプシーもまた、この神聖なイメージを崇拝しています。

クレアカーター法尼


12月24日
ミクロフからオーストリアのポイスドルフまで
20キロ歩く

オーストリアにむけて最後の行進日です。宿泊所に到着したあとに、地元の神父様が歓迎して下さいました。

クレアカーター法尼


12月25日
クリスマスにつき休息日ポイスドリフにて

地元の教会でクリスマスの礼拝に預かりました。神父様がこの巡礼について素晴らしいお説教をして下さいました。アウシュビッツは闇に閉ざされていたが、この巡礼が光をもたらした、とおっしゃいました。この保守的な国において、聖職者がクリスマスの会合でアウシュビッツに言及するという事は、信じがたい事であります。それはまるで奇跡なのです!

さらに、クリスマス礼拝の最後に、小子らがお太鼓を打ち、巡礼者の一人がユダヤの祈りを捧げ、中米からのカソリックの方が祈りました。ここには反シオニズム(反ユダヤ的考えと言動)を終わらせようというドイツ語の祈りがありました。誠にこの祈りの巡礼からは、予期せぬ祝福が生じております。

クレアカーター法尼


行進に日本語がわかるチェコ人が飛び入り

12月18日、行進がチェコ中部を南下中、ラズラビス村付近で、日本語を話すおじさんが行進に飛び入り参加して来た。

同村の鉄道員ヤロスラブ・ハプラントさん(37)。25才の時、将来は外交官をめざすつもりでプラハの外国語学校に入り日本語を4年間学んだ。教授法が自分とあわず結局卒業しなかったが、かなり達者な日本語を話す。

チェコの「ビロート革命」の時はプラハで車掌をしていた。自らを今でも「革命の兵士」と呼び、ハベル大統領を尊敬する。まわりの同僚はみんな共産主義者で革命のビラを配るにもずい分苦労したというが革命が成就した時、街頭で日本語で日本のマスコミからインタビューを受けたこともあるという。

革命前と革命後の犬と狼の例え話しでたくみに比較してみせた。「革命前の私たちの生活は犬の暮らし。福祉、医療、教育はすべて国家から保証されていたが、首輪につながれていた。今は狼の生活、何でも手に入れる為に働かなければならないが、何をしてもよい自由がある。」

1991年に日本に観光へ来るつもりで、ナホトカまで来ながら、そこから先の切符が手に入らず、引き返したことがある。今でも日本に行ったら見たいものとして、浅草の滝の白糸、鳴門大橋、奈良の大仏、厳島そして広島の平和祈念公園を挙げた。

そして、行進の途中日本人の一人に折り鶴一羽を託し広島の平和の鐘を10回ついてほしいとたのんだ。感激家らしく、最後は絶句。目をしばたたかせながらやっと鋸とで「日本のすべての皆さんによろしく」といい私におれいをいって行進と別れた。今年、6月に知りあった女性と近く結婚するという。

松崎三千蔵



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