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篠崎行攝御上人様
行攝院日脩上人遷化によせて             葬儀弔辞       

行攝院日脩上人遷化によせて  
二月十九日 ネパール国 ルンビニ道場一
南無妙法蓮華経

西天にて、われら若輩を御導きいただき、また数々の御慈悲をたまいし、篠崎行攝上人様の御遷化の報に接し、満腔の愁情、排けがたく、ここに謹んで深く哀悼の意を表し、
行攝院日脩御上人棟の増円妙道をはるかよりお祈り申し上げます。                                                                       合掌

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二月十九日 インド国ニューデリー道場                                                                                                 中村 行明(上人)
南無妙法蓮華経
 行攝院日脩上人様は小子が出家した当初より、ご縁があり大変お世話になるとともに、数多くのお教えをいただきました。一九七七年出家間もない小子は御上人様とともに、インドの長期ビザの取得のためにスリランカに渡りました。仏足山では毎日昼間セメントをこねて工事に専念され、早朝三時には起きられ人知れず本堂のお掃除に励まれておられました。出家間もない小子はそれを感動をもって眺めておりました。そしてほとんど仏教のことはお口に出されず、ただ但信口唱に明け暮れるお姿は不軽菩薩のお姿のようでした。 小子がニューデリー開教におもむくと三畳ほどの仮道場にしばしば来られて、毎日ニューデリー市内の街頭修行についていってくださいました。そしてラグックのお仏事が始まると、真っ先に十二月の氷点下二十度の中を一緒に臘八接心のお断食をしてくださり、宝土が決定されました。そして不便なラグックまで時おりきてくださり、ただ石を割り、運んでセメントをこねて苦力と一緒になって働き、朝夕のお勤めを一分の時間も狂わず毎日精進されておられました。そしてインド各地何かがありますと、真っ先に二等列車で掛けつけて、御上人様の行かないインドのお寺は存在しないというように、インド中を駆けめぐりました。しかしなにも指示するわけではなく、ただご祈念をされ、御宝前に御供養をおいておかれ、掃除をしたり何か磨いたりして、無言のご説法をされて帰られていかれました。
 御師匠様(日本山妙法寺藤井日達山主)が来られると小子の不徳や間違いを、御師匠様は小子にではなく、篠崎御上人様をお叱りあそばされ、若年の小子をかばつてくださりました。そしてその上みずからの功徳を若い小子にゆずり、御師匠様が小子をほめるお言葉をニコニコお聞きになるだけで、陰徳のご修行を命がけで実桟されておられました。まさにインドのご修行とともに生きられ、そして静かにご遷化されました。 行攝院日脩御上人様の御冥福をお祈りするとともに、御上人様が示してくださつた菩薩行のありかた、信仰心のありかた、インドへの思い、御師匠様への絶対的帰依、そして仏弟子としての生活の清らかさを肝に命じてインドにて御上人様の万分の一かもしれませんが、精進させていただきたいと思います。本来ならばお葬式に出席すべきですが、インドの仕事をひかえていて、篠崎御上人様の生前のご意思、インドに対する思いに甘えて、飛行機便の関係上も含め、明日のお葬式に参列できないご不孝をお許しくださいませ。        合掌
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二月十九日 スリランカ国コロンボにて                                                                                         葛Iノ国屋相談役 増井 進(信士)
南無妙法蓮華経
 ここに謹んで篠崎行祷御上人様の御霊前に哀悼の意を表したてまつります。
 篠崎行攝御上人様御遷化の報を西天インドよりスリランカへおもむかんとする途次にうけたまわりました。特に、故御上人様とのご縁は、恩師聖人様(日本山妙法寺藤井日達山主)が往年、拙宅に御留錫のみぎり、御随身あそばされて以来ご縁が深く、また西天においてもバイシャリ仏舎利塔の宝土湧現の御祈念のおともをし、さては静岡鈴川道場の御精進などなど今生の想い出も尽きません。 御病気を得て以来、たえず同病の身として案じ合っておりました。本年のお正月以来、御拝顔の機会がなく、気にかかっておりましたが、御訃報に接して衷心よりお悔やみ申し上げます。いまは六道の垢穢を離れて霊山浄土に御詣りあそばされ、親しく恩師聖人様の御許におもむかれたもうことと拝察申し上げます。即為疾得無上仏道     合掌
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葬儀弔辞
二月十九日 渋谷道場にて                                                                                                  且O徳副会長 大森 祐治(信士)
南無妙法蓮華経
 今日は突然のこの訃報をお聞きしまして追悼文ではございませんけれども、弔辞をもって篠崎御上人様をおしのびしたいと思います。
 私が御上人様にいちばん先にお会いしたのはカルカッタで、いまから三十数年前だったと思います。 私は三徳の創業者であります堀内貞良上人の、一言でいうとカバン持ちみたいなことをしながら初めてカルカッタヘ行って、そして王舎城の仏舎利塔建立のお手伝いをさせていただきました。とにかく言葉もわからない、そこで偉いインド在住のお坊様、庵主様方が大勢おられましたけれども、どういうわけか御上人様が非常にやさしかったものですから、私はどうも御上人様になんとなく聞きやすいといいますか、いろいろなアドバイスを受けたことをいまでもおぼえております。
 特に、御上人様に教わったことは、いくつかありますけれども、一つは「インドは日本とちがうよ」ということをさかんに教えていただきました。そして、一言で言いますと「インドは日本のように規則とか、そういうものがなかなかうまくいかないから、事故のないようにしなければいけない」ということで、そのときちょうど、ラジギールの仏舎利塔の御仏像様はじめいろいろな荷物が来まして、それをカルカッタで通関をして現地に運ぶということになりました。とにかく、日本ですと運送屋さんにお任せしていいんですけれども、むこうはそうはいかない。「もしなくなつたら、あんたどうするの」ということを強く言われまして、「それじやあいっしょに車に乗って行く」ということになったときに、初めて御上人様が「おれがついて行く」と言われました。私どもの創業者であります貞良上人も大変喜びまして、「じやあ御上人様、たのみますよ」ということで行ったことを覚えております。
 いま思い出しても、距離にして七百五十キロあります。で、その当時は道が非常に悪かったものですから、ともかくカルカッタから王舎城(ラジギール)まで、だいたい二十八時間から三十六時聞くらいかかったような記憶がございます。それも、御上人様に二回もいっしょにつきあっていただいて、大変苦労されたのではないかと思います。私どもは言葉がわかりませんから、お任せして乗っておりましたけれども、御仏像様と御仏具ですから、もtもなくなつてしまつたら、もうとりかえしがつかないというふうなときに、ずいぶんご苦労されて、夜遅くまで荷物の、ウォッチマンとでもいうんでしょうか、見張りのようなことをおやりになって、ずいぶん我々を助けていただいたと思います。
 いずれにいたしましても、御上人様の活動の拠点がカルカッタでございましたので、なかなか御上人様と我々信者との接点というのがなかったというのは、これはいたし方ないかとも思います。しかし、そういう非常に我々にとって得がたい御仏事をお手伝いしていただいたというのは、本当にありがたいことだと思います。で、いまでも仕事で生かさせていただいていることは、「あなた、確認ということは日本ではやるんだけれども、インドはちがうんだ」。「で、どうするんですか」と聞いたら、「再確認というんだよ。再確認というのは確認をして、またやるんだ」と。そんなことがあるんだろうか、というふうに思っておりましたのですが、何回もインドで日本山の御仏事をお手伝いさせていただく中で、「ああ、この御上人様の言われた再確認ということが、いかに大切なことかなあ」と。もちろん日本の私どもの仕事の中にも、この問題は共通するのですけれども、意外と再確認までは、なかなかいかないのではないかと思います。私はその教えが非常に自分の仕事の進行上、いまでも得がたい宝物のように思え、それは御上人様からいただいた大きな智慧というふうに信じております。
 とりとめもございませんけれども、たまたま病を得て何回かお見舞いには行きましたけれども、そのことを御上人様と会うたびに、「いや昔こういうところで、こうしたね」というようなことで思い出話をしたおぼえが何回かございます。どうぞひとつ、今後も我々の行く道を見守っていただければありがたいと存じます。今日は本当に皆様とともに御上人様の御葬儀に参列できましたことを喜んでおります。ありがとうございました。                                                                                                                                         合掌
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(「天鼓」九月号より転載。)