Vol. 5 インド・東南アジアからの便り


目次

はじめに

インド大統領と会見

インドにて

マレーシアペナンにて

カンボジアの恵みの雨

シアヌーク国王夫妻の歓迎

ベトナム諸宗教合同巡礼記

巡礼コース/連絡先/コース日程

インド・東南アジアからの便り

一歩一歩祈りを込めて歩く巡礼者たち。その巡礼者を迎え、ねぎらい、あるいはもてなし、ともに語らう人々。互いの魂が触れ合いながら、平和を願う祈りが広がってゆく。

終戦50年を契機として昨年12月から歩いて来たこの巡礼もようやくアジアに入りました。厳寒の東ヨーロッパから一転して今度は灼熱の印度へと巡礼は続いていきます。マレー半島、タイ、カンボジア、ベトナムの大地を踏みしめフィリピンのルソン島を歩いて、一行は広島・長崎へと行脚を重ねます。この号は、インド・東アジア編としてインドからベトナムまでの便り掲載しました。

当初行進予定を組んでいたシンガポールとマレーシア半島の巡礼は当地警察の許可がどうしても降りず、やむなく断念しました。ただ、4月22日にマレーシアのペナンにおいて現地で尽力してくださった方々の努力に深く感謝するとともに、許可を求めた一連のなかにもこの巡礼の意味があった事を信じます。

カンボジアでは、今年で4回目になる「法の行進」に合流し、続くベトナムでも奇跡的に行進許可が出て、10日間の行進が実現しました。このベトナム巡礼には、ベトナムと長く緊張関係にあるカンボジアから僧侶が参加し、民族和解への道を示しました。またアメリカからは元ベトナム帰還兵を含む市民が参加し、贖罪と平和への祈りを捧げました。

巡礼の輪をひろげる会



インド大統領と会見


 3月9日、ヨルダンのアンマンから空路インドのニューデリーに到着。翌10日、インドでの行進の出発地アグラにバスで南下した。アグラでは昨年10月2日にインド南端のニャルクマムを出発した田中、森田両上人以下の一行と合流、さらにイラク入国を果たせなかったためヨルダンでいったん別れた仲間十数人も顔を見せ、行進団は数百人の大世帯にふくれあがあった。

 アグラからインドでの行進の終点ニューデリーまでは195キロ。これまでと打って変わって暑さとの戦いだが、行程に起伏が全くないのと、1日のうちで最も暑い午後1時半から2時半にかけてが昼寝の時間になっているのが助かる。

 インドの人達のもてなしぶりにはただただ頭が下がった。25日までの全行程で、ただの1度も自分たちで食事の心配をする必要がなかった。こんなことは、ヨーロッパではなかったことだ。

 行く先々で色とりどりの花輪を1人1人が首にかけてもらった。後できいたところ、インドの水準では決して安価なものではないとのこと。つい粗末に扱ったりした自分が本当に恥ずかしかった。

各地でガンジー協会の幹部の人たちが歓迎の挨拶をしてくれた。身ぶり手ぶ振りや表情から、単に社交辞令的なものではなく、心のこもったあいさつであることはわかるのだが、何せヒンディー語。一部英語の通訳がついたところは別にして内容はまったくわからない。ついついいい加減に受け止めていた場面がなかったとはいえない。今反省している。

日程の最終日、25日に、予定より1日遅れてシャンカル・ダヤルシャルマ・インド共和国大統領と行進団の会見が実現した。過去に首相を2人も暗殺で失った国だけに、大統領官邸でのボディチェックは厳重だったが、大広間で待つことしばし、現れた大統領は学究肌で温厚そのものの紳士。一人一人と握手し、何人かと言葉をかわした。

ついで別の広間に移り、お茶をふるまわれた。大統領は田中上人に行進の今後の日程などを訊ねたのち藤井日達師の思い出に話が及んだ。大統領の話によると、1956年、釈迦誕生二千五百年記念祭がインドで催された時、ボパール州の首相だった大統領は国賓として招かれた日達師の接待役を務めた。以来、日達師の平和への貢献には深く敬愛を表して来たという。また、日本山妙法寺によるデリーでの仏舎利等建設計画については、「私もその実現のために努力してみたい」と述べた。

和やかな雰囲気のうちに会見は終了したが、宿舎に戻って2時間も経たないうちに、大統領と一人一人が握手しているカラー写真が到着。一枚25ルピー(約80円)で売られたのには驚いた。中国人についで世界で2番目に商売が上手というインド人の面目躍如というところだ。

広大な面積のインドで行進団の歩いた195キロは「あひるのひとかき」にも遠く及ばないわずかな距離だ。行く先々での見聞だけをもとに「インドはこうだ」とうんぬんするのはいかにもおこがましいので控えるが、混沌の中にも大きな可能性をいずれ実現できる活力を秘めた国であることは実感できた。


(松崎三千蔵)



インドにて

3月23日 デリー

早朝バスで、ガンジー翁の暗殺されたビルラハウスに向かう。お祈りの広場で諸宗教合同礼拝を行う。バハイ教、キリスト教、回教、ヒンズー教よりそれぞれの代表の方々が来てお祈りを共にした。その後祈念館を見学、ガンジー翁の居間で、松谷お上人さま導師の下、暫時唱題する。暫くして朝食が運ばれ、一同芝生にて朝食を頂いた。今日の市中行進には、ボーイスカウトの少年たち、サービスシビルインターナショナルで活動する婦人たち、サンニディの小学生、またインドの各地でお世話をしてくれた懐かしい顔の人々も参加して、賑やかな顔ぶれとなった。交通規制のため、途中から昨日と同じ道を通ることになった。ラジガットでは、子供たちのお祈りによって迎えられた。午後、ガンジーダルシャンのホールにて到着集会があった。ガンジースムリティよりBNパンディ氏、ガンジー記念財団のサディック・アリ氏、ガンジー平和財団のラビンドラ・バルマ氏、またウッタルカシでダム反対の闘争を指導する、インドの環境保護運動の第1人者であるスンダルラル・バフグナ氏等が、ゲストとして参加してくれた。皆、心あるガンディーアンの立場でガンジー翁の教えを実践・啓蒙している人々 だ。

サディック・アリ氏曰く「世界の人々は、この巡礼によってガンジー翁の教えを再び思い起こすことができた。平和は、困難を伴って達成されるものだ。ガンジー翁の思想を真に理解実践することは、大変難しい。しかし、私たちは、ガンジー翁のメッセージを実践せねばならない。私は、あなたがたの巡礼が、真理の探究者として続いて行く事を期待する」云々。ラビンドラ・バルマ氏曰く「カンニャクマリの出発式に出席して今日再びデリーで会うが、私の心は、常にあなたがたと共にあった。あなたがたはこの行進で、インドの魂、伝統に触れたであろう。インドの宗教は、普遍的で平和を築く教えだ。平和は、民衆によって達成される。軍隊を持つ国家によって平和は達成されない。そのために先ず私たちの心の貧欲を淘汰せねばならない。争いは、ある意味で平和を呼び起こす要因ともいえる。藤井グルジーの教えの下に立ち上がった、真に平和への実践行の一歩だ。この時代、私たちは平和への闘争を押し進めねばならない」。バフグナ氏は「あなたがたは、ガンジー翁の真の継承者だ。今の時代、人々は経済学を己の宗教とした。仏様の説かれた如く、欲望が自然破壊、戦争を引き起こす。私た ちは、社会改革を必要とする。恐れなき心と、自己への無執着と言う、二つの武器を持って社会を正して行かねばならない。普遍的な知恵と神への親愛を己の人生観の中心に据え、この己に課せられた崇高な義務を認識すべく、私たちは心の転換をはかなければならない」と語った。

松谷お上人さまは、藤井日達御師匠さまのご法話を引用された。ヒンディに訳されたご法話に、並み居るガンディーアンは熱心に耳を傾けていた。巡礼団を代表して森田上人が挨拶、巡礼を締めくくるに相応しいお話をされた。またインド巡礼を通して歩いたアリソン女史は、インドの精神性を賛嘆し、非暴力の伝統の復活を希望する話しをし、アウシュビッツからの巡礼に参加の、イタリアのロレッタ女史より、旧ユーゴ、イラク等の現状について報告があった。夕方、再びバスに分乗してシーク寺院グルドワラへ参詣。シークの信徒たちがグラントサヒブに礼拝を捧げる中で、巡礼団の歓迎会が開かれた。シーク教徒は、誰彼分け隔て無く参詣の人に接する。夕方は階下のベランダでグルドワラ流の素朴ながら平等一味の食事を頂いた。



マレーシア・ペナンにて


ペナン 説明会

マレーシア巡礼最終日のペナン島内巡礼のみ警察より許可が降りていたのに、繰上選挙の投票日間近で警察より一切の公共的行動が禁止されたため、ペナン1日の巡礼は歩く事ができなくなった。しかしペナンの準備をした中国系マレー人クー氏が「慰霊塔前の御祈念は問題ない」と報告してくれた。今日はペナンの準備をしたペナン大学で平和学を教えているラティフ博士がマレーの状況、文化、歴史の話しをしてくれた。氏は、モスリム(回教)のマレー人で、彼自身魂の遍歴を続けている求道者でもある。また急進的な教授で、政府批判が昂じた事から一度大学を追放されそうになった経歴を持つ。昨年5月平和学の実践としてマレーシアで初めての平和行進をペナンで企画し成功させた。わずか数キロの行進許可を取得するのに半年の期間を要したと言う。彼のそうした経験をそのまま生かしてこのペナン巡礼が実現したのだ。

彼の話は様々な範囲におよび、巡礼者からの質問に答えられた。「現在のマレー人全体の意識は、日本人に非常に好意的といえるだろう。特に若い人々の間には、既に第二次世界大戦は過去の歴史の中の出来事としてしか意識されていなく、慰霊碑に参詣する事も、そのこと以上の意味を持つ事はない。しかし従軍慰安婦問題だけは別で、そうした女性たちは、マレーシアの文化風習の中で唯ひたすら己の過去を隠し続け、社会の隅に生き続けて来た人々が多く、私たちもその実態は良く解らないが、そうした女性が自ら名乗り出て社会にショックを与えた。マレーにおける様々な運動、特に平和運動の歴史は未だ浅く、平和運動という形で未だ民衆の中に根差していなく、そうした運動が生まれにくい政治的な背景が確かにある。例えば宗教運動にしても、マレーシア国教の回教徒保護が第一に法律で決められていて、仏教寺院で儀式や法話がある時は、人の来る場所に”回教徒以外の人のみ”という注意書を掲げる事が義務付けられていたりする。つまり回教徒以外の宗教は、回教徒に反対しない限りにおいて存続できる。

またマレーシアの経済発展の影に、環境破壊が深刻な問題として浮上して来ている。木材の伐採、有毒廃棄物等がそれで、政府の政策そのものが、そのことと深く関わっている。表面的に様々な規制は在るが、実際は外国の投資を優先させる政策の結果が問題の根本である。しかしマレーシアの人口60%が25歳以下の若い国であり、そういう意味で将来性に富む国でもある」と語り彼の話を結んだ。日本軍がマレーシアを侵略した時、日本軍はマレー人優位政策を取り、中国系マレー人を支配した。ラティフ教授の話も、そうした歴史の一端をうかがわせる話になったような気がした。

午後より2名の戦争体験者の話を聞いた。フォン氏(69歳)中国系マレー人「第二次世界大戦が始まるまで、戦争の事を良く知らなかった。街が爆撃を受け、初めてその恐ろしさを知った。日本軍が街を支配して略奪、強姦を繰り広げた。そして抗日組織を絶滅させるため、密告が奨励され、密告された人々は見せしめの首吊りにかけられたりした。食料が欠乏し、栄養失調のため、人々の間に脚気等の病気が蔓延した。更に従軍慰安婦にされた人々の悲劇は、計り知ることができなかった。既に戦後50年を経、戦後経済大国になった日本へ、若し可能であれば、世界中に病院を作ってもらいたい」と言って話を終えた。他の一人は、かなりお歳を召していて、一生懸命話しをしてくれたのだが、良く理解する事ができなかった。しかし「慰霊塔を見るたび、いまでも非常に悲しく寂しい思いにかられる」と語った顔が強く印象に残った。

2人とも個人的な事に触れなかった。それは個人的に受けた悲劇があまりにも大きかった時、人間は二度と思い出したくないし、思い出して語る事に耐えれないのだ。50年たって尚この人々の心が癒されていない証左でもあろうか。しかし一体この人々の心が癒される日が来るのだろうか。日本人の血を受けた僧侶として、この事を切に祈らねばならないし、この50年、日本人及び日本政府のアジアの人々への対応が大きな原因となっている事を、この度、この巡礼の準備に約1年半、アジア各国の人々と連絡を取り実際に話し合い、巡礼が中止になったシンガポール、マレーシアの慰霊碑を一人で巡る事によって知ることがでた。

(笹森行周)


カンボジアの恵みの巡礼

朝の闇の中で長い冠毛をもつ朝ぼらけの地平線を、私たちは再び平和巡礼者として歩いています。それは、私たちとカンボジアの500人からなる仏教僧と尼僧たちです。尊敬すべきマハ・ゴザナンダ師によって導かれる「ダーマ・ヤートラ(法の行進)」は、カンボジアの平和のための運動を作り上げています。私たちは、平和を祈り、この国を横断し、行進するこの4回目の「ダーマ・ヤートラ」に合流しました。そして、私たちの行進する沿道に住んでいる何千人におよぶ村民たちに祝福を受けました。

尊敬すべきマハ・ゴザナンダ師は、この50年間、戦争の他は何も知らない国の恐ろしい対立を調停しようとしているのです。私が歩いた時も、クメール・ルージュとカンボジア政府軍隊の戦いをまじかに聞くことがありました。この対立は、70年代初めからおよそ2百万人の一生を犠牲にしたのです。その対立はまだ終わっていないのです。しかし、新しくたくましく育っている平和のための力強い「ダーマ・ヤートラ」に「生命と平和への諸宗教合同巡礼」は、この時を得るに不可欠である特別の意味がありました。

私たちは、タイの国境のピペットからヴェトナムの国境にあるバヴィースに着き、カンボジアのすべてを歩き終えたのです。150kmは矛盾する戦闘地域の間でしたが、私たちは、危険にさらされませんでした。

私にとって、この巡礼の最高の経験は、カンボジアの村の人たちや農家の人たちが僧侶たちや平和歩行者たちからの祝福の水を待つのを見たことでした。私たちが早朝歩きだす時に、人々のグループは祝福の水をまくための葉の多い枝と水の容器を道の両側に既においているのです。ロウソクは、朝の暗いうちでも揺らめいています、だから私たちは人々を見ることができたのです。それは神聖な光景でした。その神聖な光が、道ばたにそそいでいました。それから私は、その敬いに包まれた彼らの手が私たち平和歩行者に向かってまっすぐに伸び、これらの人々を通じ流れている超俗性の偉大な根源が、そこにあると気づきました。ほかの方法ではなく、まさにそれらによって祝福されるべき私がいました。

彼らは、私たちが1日が終わって滞在する寺院で、私たちを気前よく接待してくれました。お互いの言語を理解することができなくても、彼らは我々に伝えるのです。そして他でもない彼らの真意の興味と心遣いが私たちを祝福してくれるのです。

信じ難い地雷の増殖と戦争をとおして、今もなお変わらぬ現実に大変苦しんでいる人々、これらの人々は、すべてを引き裂かれたのです。ただし彼らの愛以外はです。そして私たちは、この現実を経験したのでした。

平和は、力強くて神秘的なプロセスです。それは、人々の中にある希望によって育てられるのです。だから平和は、カンボジアに来るのです。私たちは、このプロセスの一部であるために、敬意を払われているのです。私たちの太鼓の響きと唱題が広い野や丘につつまれたとき、ひとつの平和がカンボジアの人々に来ると、私たちは、確信するのです。

(ダン・ターナ OAKLAND. CALIFORNIA)



シアヌーク国王夫妻の歓迎

カンボジア巡礼は、この国の最も暑い季節である5月の7日から始まった。政府軍とポルポト軍との戦闘に巻き込まれる危険もあったため、人数を絞り20人余(うち日本人は8人)が、同日3時40分に、歩いてタイ・カンボジアの国境を越えた。

国境の町ポイペトでカンボジア人主体の平和行進である「ダンマ・ヤートラ」(法の行進)と合流、人数は300人近くにふくれあがった。ここで、カンボジア仏教界の最高指導者でノーベル平和賞候補でもある、マハ・ゴザナンダ師から歓迎のあいさつを受ける。おだやかで、やさしい口調だ。世界の平和を達成するには、まず一人一人の心の平和が大切なことを強調された。

この日は、宿舎までのわずかな距離を歩いただけ。本格的行進は、翌8日から始まった。

行進は国道5号から国道8号に抜け、ヴェトナム国境までの約580キロを、24日間で歩き切るという日程。1日当りの距離も、ヨーロッパと比べ大したことはないのだが、酷暑との闘いで体力を消耗する。これまでで、最も過酷な行進となった。

暑い時間をできるだけ避けるため、午前4時に宿舎(おもに仏教寺院)を出発。10時過ぎから午後2時半ごろまで昼食と昼寝。午後5時には行進終了というスケジュールだったが、この時間割りでも暑熱との遭遇は避けられず、行進開始早々から食欲不振や下痢に悩まされる者が続出した。

救いは、昨年のダーマヤートラと違い、直接戦闘に巻き込まれることがなかったこと。心配された地雷の被害に会うこともなかった。沿道の歓迎ぶりも、実に心暖まるもので、これだけの大人数の食事と給水、医療に心を配るオルガナイザーの方々の努力にも頭が下がった。

カンボジア国民とオルガナイザーのバックアップのおかげで、事故に会うこともなく、行進は24日に予定通り首都プノンペンに入った。プノンペンはちょうど20年前の1975年4月17日、当時のロン・ノル政権から、ポルポト派が「解放」したとされる。住民は「解放」直後、「これで腐敗したアメリカのかいらい政権とおさらばできた」と素直に喜んだが、その数時間後、全員が地方に追放され、プノンペンは無人の街と化した。以後、カンボジア国民は地獄に突き落とされ、ポルポト派がこの国を支配していた、3年8月の間に、約300万人が虐殺、または過酷な労働と栄養不足により衰弱死させられた。こうした悲劇を乗り越え、カンボジアは一昨年、王国に生まれ変わった。

現シアヌーク国王は第二次大戦終了直後から、さまざまな外国支配と戦い、ロンノル時代には北京に亡命。ポルポト時代には、一族の多くを殺され、自分は王宮に幽閉されていた。まさに、この国の苦難を体現する人物だが、激動の時代を生き抜いてきただけに、したたかさもあわせ持つ。しかし歓迎集会での国王の表情は柔和で、「この国の平和のために外国の方々までが、行進してくれていることに、感謝している。」と歓迎の言葉を述べた。これに対し、笹森上人が「行進の平和の精神は、カンボジアだけでなく、全世界の人々の世代から世代に受け継がれていくでしょう。」と謝辞を述べた。

(松崎 三千蔵)




ベトナム諸宗教合同巡礼記

 現在40代になる人々は二十歳の年前後にベトナム戦争を日本において体験している。この「体験」はあくまで主に報道による「間接体験」であって、ベトナムの地で起こっていた戦争そのものに比して微々たるものでしかない事は明白である。しかし、判断能力が付いてきた年齢当時のこの戦争体験は、第二次大戦のそれに較べて歴然とした臨場感を伴って当時の我々に肉薄してきた。つまり小子を含めたこの年代の我々にとって戦争とはベトナム戦争であった。

 不徳にして今回の諸宗教合同巡礼に出発から参加できず、しかし、是非ベトナムだけはという思いに駆られたのもこの理由が大きかった。今回のベトナム巡礼への準備は既に2年程前から始まっていたと聞く。笹森上人は団長としてあらゆる方面と連絡を取り、入国可能になる迄奔走し、主に米国の平和運動家達のベトナム政府トップとの直接交渉により、入国予定直前に許可が下りた。受け入れ先は、平和委員会や友好協会であり11日間の日程が組まれ、移動は列車、バス等により重要地方を点々と巡礼して行くもので、日本山本来の平和行進の形は取られなかったが、巡礼団として入国が許可されただけでも成功と言える。ベトナム戦争犠牲者の記念碑、墓地、米軍も戦った地下トンネル壕、記念博物館等々を巡り首都ハノイ到着後は殆どが各組織の幹部達や副大統領との会見に費やされた。しかし、この巡礼の最重要なる眼目は、米軍との戦争であるベトナム戦争ではなく、第二次大戦中に我が日本軍が引き起こして二百万人とも言われるベトナム人の餓死者に対する謝罪と慰霊であった。戦後50年を迎える今年を期して行われている巡礼であり、その主旨からもこの眼目は妥当であるし、ベトナム戦争 当時日本が米軍の前哨基地となり加担して行った事も、第二次大戦よりの延長線上に捉えてしかるべきである。

 首都ハノイから東へ約100程の所に大きな港町、ハイフォンがある。第二次大戦中日本軍が最初に上陸した地でもあり、現在はその上陸地点は勝景の展望台として観光地になっている。このハイフォン市で日本軍は現地の食糧を殆ど強制的に収奪し、また米作の代わりに麻などの軍事物資を作らせ、それが天候不順と重なり大飢饉が起こり、ホーチミン主席の発表では200万人という大量の餓死者が生じた。日本政府でさえ30万人という数字を認めている大戦争犯罪が引き起こされた。ベトナム戦争しか関心を示さなかった小子自らを恥じるとともに、日本においてこの事実が殆ど知られていない事をも恥じた。(最近の新聞報道によると、小学校用教科書にこの事を記述しようとしたが、文部省の「詳し過ぎるので精選を」との理由で削除された。)この件ではベトナムを離れる直前にベトナム歴史大学教授のバン・タオ先生が我々を訪れ、説明を受ける。それによると彼等は数年前からこの餓死事件の現地調査を開始し、200万人という数字はほぼ事実である事、現在賠償請求を検討中との事、しかし賠償は国家間では行わない事、生存者が既に高齢である為調査は急務である事等の講義を受けた。国家間で の賠償請求はしない事は他のアジア諸国同様、それを背景に経済援助を引き出す一連の外交であろう。

 我々が詣でた餓死者の埋葬地は一本の墓標もないただの草原で会った。子供達が遊び回るその地に円陣を組み一人一人が祈りを捧げた。歴史からも日・越二国間からも葬り去られようとしている200万人の餓死者の事実は、少なくとも全ての日本人だけには知らされなくてはならない。

 この国のベトナム戦争で受けた被害は戦後20年を経た今も目に映る。そして貧しい。巡礼団の中には数名の元ベトナム帰還兵も居たが彼等の真摯な謝罪と和解の決意表明は周りのもの全ての胸を打った。ベトナム側は寛容の心を持って過去の清算を許してくれているようだ。ドイ・モイと言う経済開放政策により、政治形態は社会主義でも市場主義経済を取り入れ、今やベトナムはアジアの中では先進国による経済投資の筆頭国の一つになりつつある。そして、米国とは今年中にも国交が回復する予定という。ある会見の場でベトナム側の軍人の一人が「我々は国連の安全常任理事国5カ国の内、4カ国と戦い勝利してきた。」と言う様に戦乱の歴史を勝ち抜いてきたベトナムは今、その戦いの相手国より強力な経済援助を受けつつある。つまり多くのベトナム人の血が経済援助の源となっている。誇り高きベトナム人の祖国独立、統一の志が経済的自立にも真に生かされねばならない。

 ベトナム当局が準備をした日程を終え、他のアメリカ、ドイツ、イタリア、カンボジア等巡礼団メンバーもそれぞれの地に移り、我々日本人10名程度だけで各地を巡りながら南下しようと日程を組んだ所、平和委員会より中部都市フエは行かない様にとの由。フエは反政府勢力の仏教僧団の寺院があり、数年前にも一仏教僧が宗教の自由を求めて焼身供養をし、その他最近も騒然としており、数日前台湾よりの仏教僧団がこの寺院を訪れており、平和委員会としては順調に行った巡礼団受け入れに汚点を残したくない様だった。我々はフエを予定から削り南下の用意をしていたところ、警察が日常的なチェックと称して全員のパスポートを持ち去り3日間戻らず。そして、事もあろうにビザキャンセルのスタンプを押され戻ってきてた。出来るだけ早い便で国外へ出る様にと言う命令とともに。

 あれだけ政府、平和委員会等に歓迎され、御世話を受けた我々が夢にも思わぬ「強制退去」になろうとは今だに以って不可解である。 しかし、治安維持は今もベトナムにとって至上命令であろう。それを乱す可能性が僅かにでも見出せるのであれば、警察は強権を出しても不思議ではない。それに、平和委員会等は保身に精一杯で警察の力には及ばない。寧ろ日程が無事終わった後は早く出国して貰うに越した事は無い。

 この様な推測しか出来ないが、説明が全く無い以上、この考え方が妥当であろう。短い日程ではあったが、ベトナムの光と影を見た今回の巡礼であった。資本主義経済を社会主義体制の中で発展させて行く過程は数多くの矛盾を生むであろうが、それに並行して警察国家的行政や宗教の自由を含む基本的人権が確保されてゆく事を祈らずにはいられない。

 小子にとってベトナムは、近くて遠い国であった。

(伊藤 行常)



巡礼コース/連絡先/コース日程


Aコース/

ポーランド/アウシュビッツ('94/12/8)〜ポーランド巡礼(12/10-12)〜チェコ巡礼(12/13-23)〜オーストリア巡礼(12/24-31)〜クロアチア/ザグレブ(`95/1/1)〜スプリット(1/4)〜ボスニア/サラエボ/ベオグラード巡礼(1/5-1/30)〜イスラエル巡礼(1/30-31)〜ヨルダン巡礼、イラク巡礼(2/1-3/10)〜インド/ニューデリー市中巡礼、Cコースと合流(3/10-31)〜マレーシア慰霊ご祈念(4/22)〜タイ巡礼(4/23-5/7)〜カンボジア巡礼(5/8-31)〜ベトナム巡礼(6/1-30)〜フィリピン巡礼(7/1-31)〜大阪Dコースへ合流(7/31)〜広島ー長崎巡礼(8/1-15)

日本山妙法寺 渋谷道場 150東京都渋谷区神泉町8-7 TEL: 03-3461-9363 FAX: 03-3461-9367


Bコース/北米コース/

日本山妙法寺 安田行純法尼 Grafton Peace Pagoda, Rd. 1. , Box 308 A, Petersburg, NY 12138 TEL: +1-518-658-9301


Cコース/

インド コモリン岬ーボンベイーニューデリー

日本山妙法寺 田中俊昌上人 浅見行見上人
CHARI-MONT, JALAPAHAR DARJEELING W.B INDIA TEL: 0354-3017


Dコース/

Dコース日程:東京('95. 4/28)→広島長崎('95.8/6-9)
日本 東京ー広島・長崎

日本山妙法寺 武田隆雄上人 川岸行持上人
東京都渋谷区神泉町8-7 Tel : +81-3-3461-9363. Fax: +81-3-3461-9367.


韓国コース/
日本山妙法寺 島貫潤二
150東京都渋谷区神泉町8-7 Tel : +81-3-3461-9363. Fax: +81-3-3461-9367.
小田 美智子
TEL: (03)5674- 7023. FAX: (03)5674- 7022


For more information,please contact:

日本山妙法寺;東京都渋谷区神泉町8−7 Tel :+81-3-3461-9363. Fax:+81-3-3461-9367.
日本山妙法寺; 100 Cave Hill Rd. Leverett MA 01054, USA Tel: +413-367-2202. Fax:+413-367-9369.
原田勝弘; 東京都港区白金台1−2−37明治学院大学社会学部原田勝弘研究室
Tel :+81-3-5421-5356(office).Fax: +81-3-5421-5202(office).


English Speaking Contact in Japan:

Ms. Kumiko Magome #206, 6-2-12, Asahi-cho, Soka-shi,Saitama-ken,340 Tel/ Fax: +81-489-44-5150


”巡礼”第5号(1995.7)
生命と平和への諸宗教合同巡礼1995アウシュビッツから広島・長崎
Imformation & Publishing ; JUNREI Publication Committee
編集&発行:巡礼の輪をひろげる会 Edited by "JUNREI" Publication Committee.
編集スタッフ;馬籠久美子/市川隆子/内藤博久/山中一郎/高原孝生 /原田勝弘
Publishing office; 印刷所;"JUNREI" Publishing Committee;浜松市富塚町1486-12

連絡先:
108東京都港区白金台1-2-37 明治学院大学社会学部 原田勝弘研究室
Tel :+81-3-5421-5356(office).Fax: +81-3-5421-5202(office).
340草加市旭町6212206 馬籠 久美子 Tel&Fax :+81-489-44-5150
432浜松市富塚町1486-12 内藤 博久 Tel :+81-53-472-5254.Fax: +81-53-478-0235. INTERnet: [email protected]


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